霊的現実を物質化せよ
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私達は神からの者であり、全世界は悪い者の支配化にある事を知っていま>
す。1ヨハネ5:19はポスト、ミレからどのように解釈されるのでしょ>
うか。もし全世界がサタンの支配下にあり、その中においてクリスチャンは無力であり、世界を変えることはできないというプレ・ミレやア・ミレの立場を受け入れなければならないとすれば、様々な矛盾が生じてしまいます。
(1)アダムとノアへの「地を従えよ。」(創世記
1・28)との命令は無効になったと結論せざるをえない。(2)イエス・キリストの「全世界の国民を弟子とせよ。」(マタイ
28・19-20)との命令が無効になったと結論せざるをえない。(3)ヨハネが繰り返し「キリストとクリスチャンはサタンにすでに勝った」(ヨハネ
16・33、1ヨハネ4・4、等)と述べている個所を否定することになる。(4)使徒
2・35やへブル1・13の「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」という個所において、「神はサタンに勝利される」とする個所を否定することになる。(5)「彼(キリスト)は、おまえ(サタン)の頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記
3・15)におけるキリストの勝利の約束を否定することになる。このように、創世記のはじめから黙示録に至るまで、聖書全体は、「神こそが真の支配者であり、サタンは神に勝つことはできない」というものです。
キリストは、はっきりと、「天においても、地においても、わたしには一切の権威が与えられています。」(マタイ
28・18)と述べておられます。キリストこそ世界の支配者であると聖書は明言している以上、「サタンが全世界の支配者、最高権力者である」と主張することが間違いであるとわかります。
では、第
1ヨハネ5・19はどう解釈したらよいのでしょうか。それは、「サタンは、世の人々の支配者である」という意味なのです。この場合、「全世界」とは「ノンクリスチャン」を指しているのです。
「全世界は邪悪の中にある。全世界とは、この世の人々のことであり、世界に住む大部分の人々のことを指す。彼らは神から生まれた者ではないため、罪と悪行から離れられない。」(ジョン・ギル『聖書注解』1ヨハネ
5・19)人間は、生まれながらにサタンの支配下にあります。だから、キリストを信じて「生まれ変わり」を体験しない限り、サタンの奴隷の状態に留まります。彼らは、サタンの願うことを行い、サタンに騙されて、サタンの教えに振りまわされ、サタンの導きに従って地獄に行きます。一生を、自分の欲望、名声、金銭、権力など、無益なもののために捧げて、神の御国を建設するために働きません。一番大切なもの――御国――を見分けることができないのは、彼らがサタンによって目を眩まされているからです。
「…この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
」(2コリント4・4)しかし、クリスチャンはそうではありません。クリスチャンは、何が正しくて、何が価値があるかわかります。だから、その一番価値のあるもののために、一生を費やそうとします。クリスチャンは、サタンの支配下にはなく、神の支配下にあるので、無益な人生を送る必要はないのです。
クリスチャンは、サタンに対して勝利し、サタンに支配されていた人々をその呪縛から解放し、同じように有益な人生の中に導き入れます。このようにして、御国はどんどん広がります。なぜならば、「キリストはサタンに勝利した」からです。福音は全世界に広がり、いずれ全世界の国民がキリストの弟子となります。
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また、プレ、ミレでも神の愛の実践は強調されていると思います。そのとおりです。
ただし、プレ・ミレがそのことを強調する時に、その歴史観と矛盾したことを行っているのです。
プレ・ミレの歴史観は、「サタンはこの世の支配者であるから、いくら努力しても、世界を愛の世界に変えることは不可能である。いや、むしろ、来るべき反キリストの全世界制覇と大患難によって、愛の業はすべて水泡に帰してしまう。」と主張します。
つまり、プレ・ミレが愛の業を強調する時に、彼らは、聖書の正しい教え(つまり、愛の業をせよ)を受け入れると同時に、その教えと相反する教え――つまり、それを実践に移す動機を消し去るような未来――をも受け入れるように言うのです。これは、「アクセルを踏みなさい。」と運転手に言いながら、傍らで一生懸命サイドブレーキを引いている人に似ています。また、出陣において、「我々は敵と戦わねばならない。しかし、承知しておきなさい。我々は必ず負けるのだ。」と述べる指揮官に似ています。
このような明らかな矛盾があるということは、その未来観が誤謬であることを示しています。
聖書は、神の言葉であり、「ひとつの言葉」です。神が、一方である教えを述べ、他方でその教えを実践させないような教えを述べるはずがありません。
プレ・ミレの人々が、その思想と矛盾したことを述べたとしても、私たちはそれをいちいち真面目に受け取る責任がありません。それは、彼らがよく考えもしないで述べていることだからです。我々が真面目に受け取らなければならないのは、プレ・ミレの人々が、自分が信じている悲観的終末論を首尾一貫して個別事象に適用した場合だけです。
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神の御心が天で行われているのは、霊的現実でしょう。地でもなされると>
は、物質を意味するのでは無く、地上で神への真の礼拝や愛の交わり、共>
同体が生まれる事を言うのではないでしょうか。天での神様の御心は神以>
外には知る手立てはありませんが、地上でも神様を楽しむ、賛美また喜ぶ>
のが神様の御心と考えます。 地上でも天国の前味を味わう事がで>
きるのでしょう。そうですね。
ただし、聖書は、「真の礼拝」とか「愛の交わり」とは、具体性がなければ何もならないと述べています。神を礼拝すると言いながら、具体的な生活において、神の法に違反していれば、その礼拝は礼拝ではないのです。
「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
」(ホセア6・6)愛の交わりといいながら、具体的に人を金銭的・時間的・精神的等に助けることがなければ、愛の交わりでも何でもありません。
「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
」(ヤコブ2・14-17)ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレは、「霊は霊、肉は肉」という霊肉二元論的区別だてをします。教会時代は、霊的な祝福の時代であって、物質的な祝福の時代は千年王国の時代に実現すると考えるからです。あるディスペンセーショナリズムの宣教師と話した時に、彼は、「現在の教会時代において、祝福は霊的であり、呪いも霊的である。だから、ある人が善を行ってもそれが物質的な祝福につながることもないし、悪を行ってもそれが物質的な呪いとなるわけでもない」と言いました。
この地上において神の御心を具体化する必要はないと述べるのです。
もちろん、「いや、そんなことは言っていない。病院を建てたり、学校を作ったりすべきだと私たちは述べている」と言うかもしれませんが、そのような活動は、プレ・ミレの霊肉二元論と矛盾します。
プレ・ミレを首尾一貫して信じるならば、地上に神の支配を確立する動機は与えられません。
今日のキリスト教は、ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレの影響を受けたために、霊的な世界に閉じこもってしまったのです。ディスペンセーショナリズムによって、
4000万のアメリカのクリスチャンは、政治にまったく無関心になってしまいました。それは、「政治はこの世のこと。この世はサタンの世だから、クリスチャンの仕事ではない。もうすぐ再臨があって、この醜い地上世界は終焉する。だからそれまで待とう。」と言って。そのために、サタンが政治の世界においてやりたい放題をやるようになった。4000万のクリスチャンが、真剣に地上における神の御心の実現を目指すようになれば、アメリカの政治は変わります。しかし、サタンの目標は、「地上にサタンの支配を確立する」ことにあるので、クリスチャンが政治や地上のことに関わらないように粉骨砕身の努力をしてきたのです。天には、完全な世界があります。そこにおいて、神は御心を完全に成就しておられます。しかし、それだけで済むならば、わざわざ地上に人間を置いた意味がないのです。人間が創造された目的は、天において行われている神の御心が、地上において具体的に目に見える形で実現されることです。物質的な世界を創造された目的は、物質界において神がどのような御方であるか、神の支配がどのようにすばらしいものであるかを人間が示すことにあります。
御心は、律法という形で啓示されています。生活の具体的な側面においてどのように行動すべきかが記されています。人間は神の似姿であり、それゆえ、人間は、律法を守って、神と似た者にならねばなりません。
神が愛の御方であることを人間は具体的に愛の行為によって表現しなければならないのです。神が義の御方であることを人間は、政治において具体的に悪を裁き、善を奨励することによって実現しなければならないのです。
01/10/08