相対主義によって相対主義を制することはできない
「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が文部省の検定によって137箇所に及ぶ修正を強いられたことが最近話題に上った。
この教科書の序章には
「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった」と述べ、「歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう」と主張している。
これは、神の基準を持たない人間の当然の結論である。
この世界が神の創造によらず、それゆえ、神が定めた善悪の基準もないならば、何らかの基準を設定してそれによって、歴史を裁くことはできない。
なぜならば、その基準が正しいか間違っているか誰も判断する資格がないからである。
人間は、この宇宙を創造したものではないのであるから、この宇宙の中の事物に意味を与える資格はない。彼が与えた意味とは、どこまでいっても主観の域を出ない。
朝日新聞2001年4月5日夕刊の「「現在の基準」で裁く意味――「自国史」越える空間創造を」と題する論文において、テッサ・モーリス鈴木・オーストラリア国立大教授が、もしこの会の主張のとおりに過去をある時代の基準で裁くことができないということが本当であれば、良いことも悪いことも何事も評価できなくなる、「連合国による「ヒロシマ・ナガサキ」原爆投下を裁いてはならない」ということになると述べておられるが、まさにそのとおりである。
しかし、教授は、ヒューマニズムから一歩出て、絶対的な基準とは何かという問いかけをしておられない。
むしろ、彼女は、「もはや「自国史」と「他国史」の間に明瞭な境界を求める歴史観は意味をなさないとする見解が、歴史学での世界的大勢であろう。」と述べ、「国民国家の文化的アイデンティティー統合をもくろみ、ナショナリズムの高揚を企てる「つくる会」主導の歴史教科書は、その世界的大勢に逆行する反動の試みである。」と非難することによって、判断の基準を「人間の意見の趨勢」という相対的基準におき、そのような相対的な基準によって「つくる会」の相対主義を批判しているという矛盾した姿勢を露呈している。
このように、歴史の趨勢とか、大勢に判断を依拠している以上、彼女の「つくる会」批判は、ただ彼らの相対主義の問題を指摘するだけであって、何ら解決を示していない。
「なぜ現在の歴史の大勢が正しいのか」そして「なぜ現在の歴史の大勢に逆行することが間違いなのか」理由を明確にできない以上、彼女の批判も、「つくる会」と同じレベルであるといわざるをえない。
ここにヒューマニズムの限界が露わになる。
相対主義に対して相対主義では対抗できない。
我々クリスチャンは、「過去の歴史は、神の基準にしたがって評価しなければならない」と声を大にして叫ばねばならない。
神の剣である、御言葉という絶対的な基準をつきつけていく以外に、サタンの野心に対抗することはできない。この世界を、再びトンデモない人間の手に渡さないためには、御言葉に堅く立つ「絶対主義」を主張する以外にはない。