宗教と主権について
宗教は主権の主張であり、社会を転覆させるものですが、転覆させる手段として強制的と自発的の2とおりがあります。
オウムははじめ、日本の民主主義の手続きにしたがって自発的な転覆をもくろみましたが、後に強制的な転覆に方法を変えました。
イスラムはジハードによって、強制的に転覆することをやってきました。「コーランと剣」は彼らのテーマです。
マルクス主義は、武力による転覆を主張しています。
「革命は銃口から生まれる。」とあるとおりです。
日本共産党ははじめ、武力革命を志しましたが、後に議会を通じて社会の転覆することに方針を転換しました。
しかし、あらゆる立場がそうであるように、彼らが目指しているのは、共産主義の世界観によってあらゆるものを支配すること以外ではありません。
聖書的キリスト教は、武力による転覆を否定しますが、他のすべての立場と同じように転覆自体を否定していません。
キリスト教の主張は、社会のあらゆる部分がキリストの教えによって造りかえられるべきであり、その方法は、まず人間が自発的にキリストに従うように変えられて[回心]、そのような人々が多数になることにより、社会に影響を与え、政治を民主的に変革する、というものです。
キリスト教は、社会の大多数の人々が拒否するようなことを無理やり押し付けるようなことはしません。
キリスト教は、辛抱強く待ちます。
辛抱強く待ちますが、非キリスト教的世界がどこまでも際限無く存続することを許すものではありません。
もし許してしまえば、「この宇宙は多神教の宇宙だ。」ということを宣言することになります。
殺人を犯すものをどこまでも許すならば、神は殺人を許す神であるということになり、神を冒涜してしまいます。
神は、唯一の主権者ですから、反神的勢力を永遠に許しつづけることをしません。最後には、必ず世界を神の側に転覆されます。
だから地獄は正当な制度なのです。