宗教と科学は対立概念か?

 

 大学などにおいて哲学科はあまり人気がないのが普通である。

 それは、就職に有利ではないからである。

 しかし、哲学は、諸科学を結び付ける絆について考える学問であるから極めて重要なものなのだ。

 機械工学や物理学や法学がそれぞれ発達しても、それらが互いにどのように結びついているのかがはっきりしなければ、人間は生きていけないし、社会は成立できない。人間の意識や社会とは、不可避的に世界観の上に成立している。世界観は、諸科学を成立させるだけではなく、諸科学を結び付ける絆をも提供する。

 

 さて、諸科学を結び付ける絆そのものは、経験科学実証科学や論理的思考ではどうしても明らかにされない。なぜならば、諸科学を結び付ける絆については、論証だけで考えることができず、そこには直観が介在せざるをえないからである。世界観は、論証だけによって認識できる領域ではない。実験観察を積み重ねて物理法則を発見できるかもしれないし、心理的法則を発見できるかもしれない。これらの領域においては論証的認識が可能であるかもしれないが、それらを結びつけてある総合的な意見を得るには直観に頼らざるをえない。

 その総合的な意見を得るために存在するのが哲学であり、宗教である。

 

 科学だけを用いて宗教を批判することができないのは、どの人間の知識の根底にも「直観的知識」があるからである。

 科学の諸法則や客観的事実についての知識があったとして、それらが雑多に脳みそにつまっていても、人間は何もできない。人間が生活できるのは、それらを有機的に結びつけて世界観を構築しているからにほかならない。コンピュータは互いに脈絡ない知識を無造作に蓄えることができるが、人間はできない。人間は、知識を得るときに、それに絶えず意味を与えながら蓄える。

 それゆえ、誰もが哲学者であり、宗教家なのだ。

 人間とは、不可避的に宗教的な動物であるといわれるのはこのためなのだ。

 科学と宗教とを対立概念とすることが間違いなのはこのためなのだ。

 

 化石を見て、創造論者は、「ああ、神のデザインだ。」と考えるし、進化論者は、「ああ、進化の結果だ。」と考える。

 

 事実があっても、それを解釈するのは直観である。

 

 いささかも直観に頼らないで物事を判断できる人間などいない。

 

 科学を尊重する人々と、迷信的な人々の違いは、論証的な知識を受け入れる度合いの違いだけであって、「論証的な知識オンリー」と豪語できる人はひとりもいない。

 

 「この宇宙において、物質世界のほかに何か霊の世界があるなどと考えることはできない。霊の世界があると仮定して作られた哲学は宗教であって、合理的な人間はこれらの哲学を拒絶しなければならない」と主張する唯物論者や自然主義者たちは、すでにこの意見を持った時点で自らを宗教家にしている。

 

 なぜならば、「霊の世界は存在しない」との意見は、直観によっているからである。有限な知識しか持つことのできない者は、誰も霊の世界の不在を証明できないからである。

 

フォイエルバッハが、「ヘーゲルは宗教家だ。彼の哲学は神学にほかならない。わたしは、純粋な非宗教的世界観だけを信じる」と述べた時に、彼も宗教家であることを証明してしまった。

 

 

 

 



ツイート