相対主義は時代の試練に勝てない
近現代の世界は、キリスト教文明を土台として成立しているにもかかわらず、キリスト教を捨て、あたかもそれが文明の妨害者であるかのように主張している。
学校での教育はキリスト教に対して敵対的であり、教科書ではキリスト教を科学や自由の迫害者であるかのように描いているため、多くの人々は歴史の真実を知らず、キリスト教を反科学であるかのように考えている。
ヒューマニズムは、人間中心というだけではなく、この世界が人間の人間による人間のためだけに存在していると考えたが、それでは超越的な倫理や道徳が存在できなくなるため、その地方、その時代において倫理は変化してもよいとする相対主義に陥らざるをえない。ヒューマニズムを信じれば相対主義の泥沼にはまる以外にはなく、社会全体の堕落や規範の崩壊に歯止めをかけることは理論上不可能である。
社会の崩壊が現実のものとなっていない時代には、その社会から受ける害について実感がないため人々はこれでもいいかと妥協しているが、実際にアメリカのように、学校の中で銃撃が行われ、殺人が横行するような世界になれば、やはり相対主義に疑問を抱く人々が出てくるのは当然である。子供をこのような学校に入れて人生を台無しにさせたくないと考える親たちは、自分の家庭で教育することを選択しだした。現在、170万の家庭でホームスクーリングが行われている。
人間は、人間のうちから出たものではない基準がなければ、生きていけない存在なのだ。子供が援助交際をしても「人に迷惑をかけてはならない」としか教えてこなかった親たちはそれを禁じることはできない。進化論の世界観を社会に適用すれば、社会は弱肉強食の殺伐としたものにならざるを得ない。
進化論とか無神論を主張する人々が首尾一貫して生活しているのを見たことがあるだろうか。彼らは進化論を信じながら、同時に、弱者を進化の邪魔だからというので抹殺したヒトラーを非難している。
世界は、キリスト教の世界観を採用せざるをえなくなるだろう。首尾一貫していない欠陥のある世界観は、時代の試練によってふるいにかけられる以外にはない。