聖書における依存とは?
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ご質問>聖書の中での依存という意味がわかりません。具体的にわかりやすく、そして具体例なんかもあげてくれるとうれしいです。注文がおおいようですがおねがいします。
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お答え>依存とは、頼ることですよね。
人間は、誰一人、神によって創造されなかった人はいません。
一見すると、あなたのお父さんとお母さんは偶然に出会って結婚してあなたを産んだように見えますが、そうではなくて、不思議な導きがあったのです。これは、すでに永遠の昔に定められたコースであり、誰もそれを動かすことはできないのです。つまり、あなたが生まれないということはあり得なかったのです。
人はこれを運命とか縁とか言いますが、正確に言うと、「神の意志」なのです。
すべての人は偶然の産物ではなく、神の意志によって「生み出された」のですから、神の被造物です。
自分の存在そのものが、神の意志によってあるわけですから、人間の本質は、神に完全に依存する者なのです。
人間は、たえず神に依存しており、神の支えがなければ、一秒たりとも生き延びることはできません。
これが現実なのです。
「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 」(コロサイ 1・17)
しかし、人は、真の創造者を忘れて、あたかも自分は創造者に支えられているのではなく、他の何かに支えられているかのように考えることがあります。これを偶像礼拝と言います。
依存の対象を他のものにすることを、聖書では、偶像礼拝と言います。
例えば、人間が自分の力に頼ることは偶像礼拝です。
「『彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。』民はユダの王ヒゼキヤのことばによって奮い立った。」(第2歴代32・8)
つまり、アッシリアの王セナケリブが頼っているのは、肉の腕(=人間の力)であるのに対して、イスラエルが頼っているのは「私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方(=ヤーウェ)」である、というのです。古代の聖書の世界の戦争とは、神と神との戦いでした。それぞれの民族にはそれぞれの神がいて、彼らはその神に頼って戦争をしました。
セナケリブは、イスラエルの神を侮ってこう言いました。
「アッシリヤの王セナケリブはこう言っておられる。おまえたちは何に拠り頼んで、エルサレムの包囲の中でじっとしているのか。
ヒゼキヤは、『私たちの神、主は、アッシリヤの王の手から私たちを救い出される。』と言って、おまえたちをそそのかし、飢えと渇きで、おまえたちを死なせようとしているではないか。
あの主ではないのか。その高き所と祭壇をヒゼキヤは取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい、『あなたがたは、ただ一つの祭壇の前で拝み、その上で香をたかなければならない。』と言ったのだ。
おまえたちは、私と私の先祖たちが地のすべての国々の民に対して、何をしてきたかを知らないのか。地の国々の神々が彼らの国を私の手から救い出すことができたか。
私の先祖たちが聖絶したこれらの国々の神々のうち、どの神が私の手からその民を救い出すことができたか。おまえたちの神が私の手からおまえたちを救い出すことができるというのか。
今、おまえたちは、ヒゼキヤにごまかされるな。このようにそそのかされてはならない。彼を信じてはならない。どのような国、どのような王国のどのような神も、その民を私の手から、私の先祖たちの手から救い出すことはできない。まして、おまえたちの神は、おまえたちを私の手から救い出すことはできない。」 」(第2歴代32・10-15)
セナケリブは、ヤーウェに頼っても無駄だといいました。しかし、聖書は、神がそのセナケリブの軍隊を崩壊させたと述べています。神は圧倒的な力があるので、セナケリブが依存している神を打ち負かされたのです。
このように、偶像礼拝とは、本当の神ヤーウェ以外の者に頼ることなのです。
「主はこう仰せられる。『人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。』」(エレミヤ17・5)
まとめ:
(1)人間はみな神によって造られた者なので、存在すべてを神に依存している。
(2)神に創造された者として、人間は積極的に神に依存しなければならない。神以外のもの(自分の力、他の神々)に頼ることを偶像礼拝と呼ぶ。
01/06/20