悔い改めと赦しの重要性
(1)夫婦の危機にあるカップルの問題にかかわった経験から、悔い改めが重要であると痛感しています。
一方が、他方の罪を責めるならば、他方は心をさらけだして悔い改め、相手に謝る以外に方法はないように思えます。赦しを求められた側は、絶対に相手を赦さねばなりません。
双方とも、弱い人間同士なのですから、互いに赦し合うという姿勢がなければ、破局以外にはありません。
裁きの気持ちが前面に出ている家庭や教会は崩壊します。
すぐに長老会にかけたがる教会や、相談者を断罪し、説教を垂れる指導者には人がより付かなくなります。
まず、自分が罪人であって、相手よりも劣っていると考える謙遜さがなければ、どのような人間関係でも長続きはしないと思います。
(2)心理学は、神を捨てた西洋が、神抜きで精神面での救いを与えようとする試みの一つであると言ってもよいでしょう。
もちろん、心理学のすべてを否定するつもりはありません。
しかし、人間が神の被造物である以上、神抜きで問題を解決することは、的外れであり、無駄な努力であるといわねばなりません。
神は、人間を契約の基準にしたがって評価されます。
罪を犯すならば、契約の規定にしたがって、罰が下ります。
罰を回避するには、罪を悔いて再び繰り返さないということ以外に方法はありません。
ヒューマニズムは、世界は神抜きで成立しており、神に対する責任というものは存在しないと宣言します。
世界は神によって成立したのではなく、自然にできたと考え、それゆえ、人間に法を与える神は存在しないと宣言するのですから、当然、人間を超えたものからの裁きなど存在しないと考えます。
しかし、どんなに「俺を裁くものは存在しない!」と叫んでも、神は存在し、罪を犯した者を絶えず裁いておられるのですから、悔い改めという解決以外のどのような方法も、けっして心に平安を与えません。
自分の生い立ちを分析しても、人間関係や様々な環境に問題を転嫁しても、神から来ている裁きを回避することはできないので、今日精神治療は大きな挫折を味わっています。
神に頭を垂れるくらいなら、病気のままでいたほうがいい、と考える人は、真の原因=「罪を犯したこと」に話しが進むと、狂ったふりをしたり、無茶苦茶な理屈を並べて問題をそらそうとします。そういう人は一生問題を解決しないまま無益な人生を送ることになります。
ある人が、「現代の心理療法士のソファーは、かつての教会の告解(懺悔)室の椅子である」と言いました。
かつて人々は、告解室において、または、個人の祈りの部屋において罪を告白し、神からの赦しを求め、それを得ることができましたが、神を葬り去った現代人には、いかなる場所においても、「赦しを受ける」体験ができません。どんなに、カウンセラーに怒りをぶつけても、過去の体験をほじくりかえしても、人格的存在からの赦しを受けることができません。
神への悔い改めと赦しは、最良のカタルシスであり、人間の罪責感は、これ以外では解決できません。
(3)ヒューマニズム的カウンセリングが教会の中に入り、「非指示的カウンセリング」が盛んです。クライエントの話しをただフムフムと聞くだけでは解決にならないことは明らかです。
聖書的カウンセリングは、人の本当の問題は、罪を犯したことにあり、その罪を悔い改める以外には方法がないことをはっきりと指示します。
あるカウンセラーは、同性愛者を息子に持つ両親に対して、「息子さんがホモである事実を受け入れ、また、息子さんにも自分のありのままの姿を受け入れるように教えてあげなさい。」とアドバイスしました。
罪は受け入れる対象ではなく、捨て去るべきものです。
ヒューマニズムにおいては、何が罪であり、何が罪ではないかが不明確なので、正しいアドバイスができません。罪を犯し続ける人に、その罪を受け入れるようにすすめても、本当の解決はありません。