置換神学について
<ご質問>
BBSで、今日、ユダヤ教の偉大な遺産が回復されつつあり、キリスト教は、そのユダヤ的な土台を取り戻さねばなりませんと述べておられましたが、いわゆるメシアニック・ジューやユダヤ人宣教団体の先生方は、「置換神学」(私自身、よく理解しているとは言えないが)は間違っていると言われますが、「再建主義」運動の方たちは、「置換神学」についてはどう考えておられるのですか。
<お答え>
現在、メシアニック・ジューと呼ばれる人々が、ユダヤ人伝道をさかんに進めています。これは、非常に素晴らしいことで、神の計画の中で重要な役割を果たしていると思います。彼らは、民族的なイスラエルは現在でも重要な務めを負っていると考えています。再建主義者の多くは、同じように、民族的なイスラエルを重視しています。なぜならば、ローマ11章において、明らかにパウロは、民族的なイスラエルの回復がなければならないと主張しているからです。
「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです」(ローマ11・28−31)。
しかし、カルヴァン主義者の間には、神殿崩壊の時に、イスラエルは裁かれて、それ以降、教会が神のイスラエルの代わりになったのであり、救済史において現在イスラエル民族にはいかなる意味もない、と考える人々がいます。この立場を置換神学とメシアニック・ジューの人々は呼んでいます。ハル・リンゼイは、再建主義を批判した”Road to Holocaust”という本を書き、そこにおいて、「再建主義者は、
預言の解釈においてユダヤ人にすぐれた地位を与えていないので反ユダヤ主義への道を開いている」と主張しましたが、まったくの誤解か、もしくは、中傷です(参照・『後千年王国説とユダヤ人の救い』)。再建主義は、置換神学について意見が二分しており、R・J・ラッシュドゥーニーは置換神学に立っていますが、ゲイリー・ノースやゲイリー・デマーは、教会時代におけるイスラエル民族の重要性を認めています(参照・『後千年王国説とユダヤ人の救い』)。再建主義の源流とも言うべき、アメリカの入植時代のピューリタンたちが信じていた後千年王国説カルヴァン主義は、イスラエル民族の重要性を悟っており、未来においてイスラエル民族が回復し、キリストを信じるようになることを主張しました。
旧約聖書と新約聖書の間には、明らかに経綸(神の取り扱いの方法)の違いがあります。旧約聖書は「民族的・地域的」であり、新約聖書は「超民族的・普遍的」です。旧約時代に神はイスラエルに福音を委ね、神の国はユダヤ人を通じて発展しました。しかし、新約時代に神は全世界の民族に神の福音を伝え、彼らの間に神の国を作っておられるのです。現在、ユダヤ人が救いにおいて、霊性において、神から特別の好意を受けていると考えることはできません。もちろん、アブラハムの約束があり、召しと賜物は変わらないのですから、彼らがまったく無視されて、他のいくつかの民族と同じように完全に捨て去られるということはありません。彼らは必ず救いに回復され、神の家族の中に入れられるのです。
しかし、だからと言って、メシアニック・ジューの中のある人々が言うように、彼らに特別な支配の賜物が与えられてメシアの時代に、イスラエル国がキリストの全世界支配のセンターになったり、諸国民を指導する民族となると考えることはできないのです。そのような特権的な地位を与えられると考えることは、旧約聖書と新約聖書の経綸の違いを無視した間違った考え方だと言えます(*)。霊的に生まれ変わったすべてのクリスチャンは、神のイスラエルであり、神の子どもです。そこにはユダヤ人と異邦人の区別はありません。
ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです(ローマ10・12)。
そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです(コロサイ3・11)。
神の国において一級市民と二級市民の区別があるわけではないのです。
旧約時代においては、救いはイスラエルに与えられていました。神は、世界の中において、イスラエルを一級市民とし、異邦人を二級市民として扱っておられました。しかし、民族的な経綸が撤廃された今では、そのような民族による序列は存在しません。あるのは、御国に属する人々(クリスチャン)と、御国に属さない人々(ノンクリスチャン)の違いだけです。
イスラエルは栽培種のオリーブであり、異邦人は野生種のオリーブであるとたとえられています(ローマ11・24)。そのとおり、イスラエルは神に選ばれて訓練を受けた民でした。ですから、彼らがもし目覚めるならば、異邦人よりも福音をよく理解できることでしょう。霊的な事柄についてもすぐれた意見を発表することでしょう。しかし、それは、彼らが特権的な地位があるからではなく、そのように「かつて育てられ」良い教育を受けたから、ということでしかありません。紀元70年の神殿の崩壊において、ユダヤ人は特権的な地位を失ったのです。そして、福音は実を結ぶ民に委ねられたのです。
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます(マタイ21・43)。
それゆえ、これからユダヤ人がクリスチャンになっていくときに、彼らが異邦人よりもすぐれている立場にいるとかいうことはありません。もしメシアニック・ジューがこのような特権的立場を主張するならば、再び選民意識によって傲慢になり、神の裁きを受けるようになるでしょう。
(*)現在、メシアニック・ジューのある人々が、前千年王国説を採用し、再び神殿が建設され、再臨のキリストがエルサレムから全世界を支配し、ユダヤ人は世界の指導的民族になると主張していますが、このようなストーリーはこの新約時代において成立するはずがありません。なぜならば、新約時代とは、キリスト御自身とクリスチャンの体が神殿であり、それゆえ、霊と誠とによる礼拝が、民族や場所の限定なく行われている時代だからです。もし神殿が再建されるならば、契約の箱が置かれ、至聖所と聖所とを隔てる垂れ幕が再び設置されなければなりません。しかし、この垂れ幕は、「罪ある人間は神にむやみに近づけない」ということを示しており、キリストが十字架上で罪を贖われたときにそれは真っ二つに裂かれたのです。もう一度このような幕を縫い合わせて設置することは、キリストの贖いを否定する冒涜であると言わねばなりません。キリストが万物を十字架によって和解され(コロサイ1・20)てからは、エルサレムはもはや聖なる特別な土地ではなく、ユダヤ人が聖なる民であるというわけでもありません。食べ物に浄不浄の区別が撤廃され、感謝して受けるときすべてが益となるように、聖地とそれ以外の区別、ユダヤ人と異邦人の区別、安息日とそれ以外の日の区別も撤廃されました。それは、実体であるキリストが明らかにされたからです(キリストは真の安息(マタイ11・28)、真の神殿(ヨハネ2・19、21)、真の食べ物(ヨハネ6・35)であると言われている)。安息日や聖地や神殿や食べ物に特別の意味を回復させようとすることは、その本体であるキリストを拒むことになるのです。