復活は非科学的か?
>ユダヤ人キリストは
>十字架に貼り付け殺されたが
>奇跡とか復活?とか ( 笑 )
>いっているらしいが
>何と死んだ人間が
>生き返ってしまう ( 笑 ) などと
>科学に反し医学に反する
>これぞ
>
“インチキ詐欺教祖”や>
“新興宗教団体”が使う>常套手段だ
すでにあなたのこの幼稚な批判については反論をしています。
読んでないんですか?
それとも読めない?
科学は、奇跡や復活を否定できません。
なぜならば、科学は、人間の経験したこと以外のことを言えないからです。
もちろん、人間の経験以外のことについても「類推」はできます。
コップを手放すとコップは下に落ちるかという実験をして10000回下に落ちるという結果を得たとしても、10001回目に下に落ちるかどうか予測することは、「厳密な経験的認識論」に基づけば不可能です。
もちろん、いままでの経験から下に落ちることは十分に予測できますが、「絶対に下に落ちる」ということを科学は証明することはできません。これは、帰納法に基づく認識の「原理的な」限界――つまり、人間知識は蓋然性の域を越えることはできない――なのです。
これは、イギリス経験論が、合理主義に対してつきつけた決定的な問いかけであって、それを合理主義の側から反論できませんでした。
そこで、もし経験論の批判をそのまま放置しては科学は成立しないので、実用面から、「科学は、経験していないものについても発言できることにしよう。」という約束事を作ったのです。
つまり、「もし、経験できないことは何も言えないということになれば、人間は科学的探求をすべて諦めてしまわねばならないから、経験できないことについても、ある程度の常識を加味して、類推し、それらについても発言できるということにしよう。」という取り決めをしたのです。
おわかりのとおり、これはあくまでも「取り決め」であって、それについて賛同しない人々から見れば、単なる主観に過ぎないのです。
この取り決めの基本にある原理は、「この宇宙は閉じられた系であり、その中においてはいつでもどこにでも同じ法則が働く」という信仰です。
しかし、この信仰が正しいことを証明した人は誰もいません。
キリスト教は、宇宙を閉じられた系であるとは考えませんし、いつでもどこでも同じ法則が働くとは考えません。
例えば、コップを手放した時に、神がそれを支えて落ちないようにすることもある、と考えます。
「え〜、そんな馬鹿な!神を持ち出すなんて非科学的だ。」という人は、「それじゃあ、神がいないこと、そして、神がそのような介入を絶対にしないことを証明できますか?」と聞かれます。
こんなことを経験科学によって証明することは不可能なので、経験科学は、「宇宙を閉じられた系であるとし、宇宙の中においてはいつでもどこでも同一の法則が適用される」ということを、「約束事以上のもの」にすることはできないのです。
ワカッタ?
おまけ:
この説明でも、わかんないなら、一つ質問をします。
この歴史上に「復活」が一度も、絶対に起きないということを<原理的に>証明していただけますかね。