罪は償いを要求する
人は蒔いた種を刈り取らねばならない。
テレビでやっていたが、バブル時代、大学生と合コン、複数の男性とつきあい、妊娠中絶し、結婚した後も不倫が止まらず、精神を病んで離婚の危機にある女性。
「自分は、これらの行為のつけを支払わされている」と言う。
ナンパで何人もの男性と関係を持って病気になり、「ついに、天罰が下った」と告白した女性。
そうだ。
この世界は偶然に成立したものでも、我々は進化のはてに生まれたものでもない。世界を創造した神の御心によって生まれたものだ。
だから、人生は厳粛なのだ。
人間は、神の法の下に生まれる。そこから抜け出ることはできない。
だから、神の法に違反する人はみな、その刑罰を背負う。
さんざん罪を犯して、死んでも何もない、と言う人は、間違っている。
このように言う人々は、「公園で花見をして、散々遊んで、ゴミをちらかしたまま立ち去る人々」に似ている。
この人生において、散らかしたゴミは、必ず、来世において片付けなければならない。犯した罪は、この世において処理しなければ、来世において処理することになる。
「人は、一度死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが定められている。」とイエスが言われたとおりである。
罪の代償は、肉体の死と永遠の死である。
罪を犯した人は、一人残らず死後、永遠の刑罰を受ける。火の池に投げ込まれる以外に道はない。
しかし、この火の池を避ける方法が一つだけある。それは、キリストの犠牲を信じることである。
キリストは、人間の身代わりに神の刑罰を受けて、死に、永遠の刑罰を受けた。
誰でもキリストを受け入れる人は、罪の刑罰を受けない。罪はキリストの上に完全に処理されたからである。
また、日々犯す罪も、キリストの犠牲のゆえに赦していただくことを祈ることによって、必ず赦される。
バプテスマまたは洗礼とは、我々が罪を赦されてキリストの救いの中に入ったことを象徴する儀式である。聖餐のパンとぶどう酒とは、現在、キリストの救いの中に入っていることを象徴する儀式である。
洗礼は、入会の儀式であり、聖餐は契約更新の儀式である。
それゆえ、罪の赦しを受けたい人は、正統的な教会に行って、洗礼を受け、聖餐にあずかることをお勧めする。
人は、罪を犯したら、その罪の大小にかかわらず、みな償いを必要とする。償いをしないままに人生を終わるならば、来世において償いをさせられる。
永遠の火の池の中に投げ込まれるという償いを回避する唯一の道はキリストの十字架を信じることである。
01/06/20