ユダヤ人の回復の実像
(1)ヤコブはイスラエルの再建・帰還はキリストの初臨において成就したと述べている
たしかに、使徒行伝に記されている使徒たちの旧約聖書の解釈は、霊的なものであることが分かります。
「ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。 大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』」(使徒15・12-16)
アモス9・11-15の次の預言は今成就したのだとヤコブは述べたのでしょう。
「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。――これをなされる主の御告げ。―― 見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。わたしは、わたしの民イスラエルの捕われ人を帰らせる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。」とあなたの神、主は、仰せられる。」
よくプレ・ミレの人々は、「わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。」を、これは、終末におけるイスラエル帰還と解釈します。なぜならば、かつてイスラエルが祖国パレスチナにおいて永住したことはなかったから。終末において、ユダヤ人はパレスチナに帰還したならば、二度と追い出されることはないのだ、と彼らは主張します。そして、それが1948年にイスラエル国が建国されたときに成就したのだと。
しかし、やはり、使徒ヤコブが言うように、この個所は、霊的な王国の建設と解釈しなければならないようです。
イエスが来られたことによって、イスラエルは回復したのだ、そして、イスラエルは二度と引きぬかれることはないのだと。イスラエルの回復とは、幕屋の再建とは、仮庵を建て直し、廃墟を復興することとは、イエスの来臨によって成就したと。つまり、イエスが来臨して、福音の王国が建設され、イエスが昇天されてユダヤ人の王となられたということによって、イスラエルが回復したのだということが暗示されているのでしょう。そして、ここでは、イエスが来臨されたことは、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どりにすることであった、それは、イスラエルの回復という意味だけではなく、異邦人の救済のためであった、ということが言われていると思います。「それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。」とありますから。
キリスト来臨→イスラエルの再建→異邦人が主を求めるため
という図式が成り立つのではないでしょうか。
このヤコブの主張のとおりに、異邦人は主を求めるようになり、福音が全世界に及びました。再建されたイスラエルの王国は、全世界に広がりつつある。全世界から加えられた異邦人達は、霊的なイスラエルになり、王国の国民になった。
(2)イスラエル民族も最後にキリストの王国に加えられる
ただ、問題なのは、紀元1世紀以後、イスラエルの再建の中核をなしていたユダヤ人が信仰から離れて行ったということです。
パウロは、必ずイスラエルは主のもとに帰ると預言している(ローマ11章)。
思うに、先の者が後になるとイエスが繰り返して述べておられたように、彼らは異邦人の後に御国に加えられるのでしょう。「異邦人の数が満ちるときユダヤ人が信仰に立ち帰る」とパウロが述べているとおり。
このようにして、最後にはすべての国民がキリストの弟子となる。
プレ・ミレの人々は、このユダヤ人の回復を、神殿の建設、祖国復帰ということに解釈してしまっているのだが、これは、非常に問題がある。なぜならば、神殿の建設をすればキリストの贖いを無効だと宣言することになるから。動物犠牲をすれば、キリストの一回限りの完全な贖いは否定される。また、祖国復帰は、すでに述べたように、ヤコブのアモス書解釈から、「すでに初臨のキリストによって成就した=霊的復帰」と言える。
(3)キリストの王国においてユダヤ人と異邦人の間に序列はない
キリストの来臨は、イスラエルの再建であり、異邦人はそれに招かれるのだというヤコブの主張だけを見ると、信仰に回復したユダヤ人が中心になってキリストの王国は運営されるというメシアニック・ジューの人々の主張が正しいと見えるのだが、しかし、イエスは「御国はユダヤ人から奪い去られて、実を結ぶ国民に渡る」と宣言され、イスラエルを象徴するいちじくの樹を枯らされた。またパウロは「もはやユダヤ人も異邦人もない」と言った。これらの要素を調和させるならば、「御国の中心の位置を占めていたユダヤ人はその地位を失って、もはや、イスラエルと異邦人の区別なく御国は建設される」という結論を出す以外にはないように思われます。
メシアニック・ジューの問題は、イスラエル、ユダヤ人の(政治的)栄光を取り戻そうという願いが背後にあるからではないかと思われます。つまり、キリストの王国においても、自分たちは「一流のクリスチャン」で異邦人は「二流クリスチャン」という区別たてをしたいからではないか。なぜ、彼らが、ポスト・ミレを採用せず、プレ・ミレに留まり続けているのかはここに原因があるように思えます。そうでなければ、これだけ字義的解釈にこだわる理由がありませんから。つまり、
字義的解釈→ユダヤ民族と王国の文字通りの復活→イスラエルと異邦人の2つの王国
という構造があるのではないか。
どうもメシアニック・ジューに違和感を感じるのは、このような偏狭な民族主義があるからだと思います。
(4)イスラエルの祖国復帰には意味がある
ヤコブのアモス預言解釈から祖国復帰はすでにキリストの初臨によるキリストの御国の開始において実現したことは確かですが、しかし、今日の置換神学の人々が言うように、パレスチナ復帰にいかなる意味もないと考えることはやはり私はできません。
ユダヤ人が霊的に回復することには、実際的な、歴史的な現われがあるように思われるのです。もし霊的な回復があってそれですべて民族的な隔てが取り去られたのであれば、ユダヤ人は今日生存していなくてもよいのです。むしろ、奇跡的な方法によって、ヒトラーの迫害の後全世界からユダヤ人が祖国に帰ってきました。
もちろん、プレ・ミレ的な意味での祖国復帰ではありません。古代ユダヤの栄光の再現、神殿再建、ユダヤ人主導のキリスト教、再臨のキリストのエルサレムからの世界統治がまったくの幻想であることは明らかです。
しかし、神様の方法は、単に世界のユダヤ人が信仰に回復し、異邦人と一緒に教会に集い、民族の特徴を失うほどに異邦人に同化していくということではないはずです。そこには、やはり、神の恩寵として、かつての有様に外面的にも回復するということがあるのではないか。ポスト・ミレのピューリタンたちはユダヤ人の祖国復帰を信じていました。
ラッシュドゥーニーの群れの人々は、ユダヤ人の存在すら認めません。今日のユダヤ人はあまりにも雑婚によってユダヤ人としての識別が難しいし、聖書はもはやユダヤ人中心の時代は終わったと述べているから。まして、祖国復帰などもってのほかでしょう。彼のロスハウス・ブックスは、「イスラエルは今日教会である!」という本を出版しているくらいです。
私は、神が民族という単位を尊重しておられると思います。日本人の個人を扱うだけではなく、神は日本民族にも目をかけておられる。それが、マタイ28・19−20の「全世界の国民を弟子とせよ」という「国民」という言葉をあえて用いられたことに現われていると思うのです。
それゆえ、ユダヤ人という民族を回復される、それは、霊的回復だけではなく、祖国に復帰して、国を作るという意味においても。
ユダヤ人にはもはや特権や、特別な地位はありません。それゆえ、彼らが回心してキリストの御国に加わるならば、日本人やアメリカ人と同じように一つの民族として御国のために働くと思います。これは、チルトンなんかも言っています。