黙示録20章1-3節について

 

<ご質問>

黙示録20章1-3節で、「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない」とあります。教会時代を千年王国と考えるならば、サタンは現在縛られ、封じ込められていて、まったく活動できないということになるわけですが、現実を見れば、サタンは世界の至るところで活動しています。これは、矛盾ではないでしょうか。

 

<お答え>

(1)「サタンの縛り」について

聖書は聖書によって解釈するという原則を適用するならば、ここで言われている「縛る」という言葉が、「サタンの活動を完全に抑制する」ことを必ずしも意味していないことは明らかです。なぜならば、他の個所において、サタンはキリストによってすでに武装解除され、束縛されていると述べられているからです。

「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」(コロサイ2・15)。

御存知のように、凱旋の行列に加えられてさらしものとされた捕虜は、縛られて、抵抗できないように武装解除されていました。サタンや悪霊どもは、キリストによってこのように「すでに」縛られているのだ、とパウロは述べているのです。

「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」(エペソ4・8)。

ここでも、パウロは、「キリストはサタンや悪霊どもを捕虜とした」と述べています。しかし、同時に、同じエペソ書において彼は、サタンとの戦いがあるとも述べているのです。

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6・11−12)

私たちの常識からすれば、「捕虜となった者がどうして戦うべき敵なのか?」と考えられるわけですが、聖書は、サタンのイメージを「捕虜」でありながら、なおかつ「敵」でもあると明言しているのです。私たちは、自分の常識によって結論を出してはならないので、この二つのイメージを調和させなければなりません。さて、どのように調和できるのでしょうか。

それは、「サタンは確かに捕虜となり武装解除されているのだが、なおも限定的な活動を許されている」ということ以外にないでしょう。事実、黙示録20章1節では、御使いがサタンを縛るための鎖を持っていたと述べられており、「縛る」という言葉’εδησενは、他の個所を見ると、必ずしも完全な抑制、完全な自由剥奪を意味していません。この言葉が使用されているマルコ5章3,4節では、ゲラサの狂人は鎖で縛られていたと述べられており、また、マルコ11章2,4節では、ろばの子がつながれていると言われています。どちらも、まったく身動きが取れない状態を述べているのではなく、鎖によって行動の範囲が限定されているということを示すのに使われているのです。

サタンは、現在キリストによって首に鎖をかけられていますが、それでも、その鎖の届く範囲内で世界を惑わし、我々に攻撃を仕掛けています。彼は我々に悪さをしますが、しかし、縛られているので、我々が彼に攻撃を仕掛ければ、彼の所有している魂や国土を奪い取ることができるのです。イエスは、次のように言われました。

「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです」(マタイ12・25-29)。

この言葉を証明するかのように、遣わされた70人の弟子たちが、喜んで帰ってきてこう言いました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」(ルカ10・17)。強い人であるサタンは縛られているので、イエスの御名の権威を用いれば、悪霊ですら言うことを聞くのです。

一般に、黙示録20章は将来のことであると解釈され、「サタンは縛られて自由がきかなくなり、クリスチャンが伝える福音は何にも妨げられることがなく、全世界がキリストに服従するようになるのは、未来の千年王国においてである」と考えられていますが、聖書は、現在すでに、サタンは縛られ、自由を奪われ、力を失っているので、我々には敵のあらゆる力に打ち勝つことが可能であり、彼は我々に害を与えることはできないのだ、と述べているのです。

「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません」(ルカ10・19)。

これだけはっきりと、クリスチャンの現在の勝利について約束しておられる以上、それを将来の出来事と解釈する必要はないのです。

 

(2)「サタンの封じ込め」について

ある人は、「それでは、黙示録20章の『底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して』というのはどう解釈するのか、これは、明らかに完全な活動停止を意味するのではないか」と言われるかもしれません。しかし、聖書は、サタンや悪霊は、「現在封じ込められている」と教えているのです。ペテロは次のように述べています。

「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました」(第2ペテロ2・4)。

しかし、同時に、彼は、サタンはクリスチャンを攻撃しようと徘徊していると述べているのです。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」(第1ペテロ5・8)。

聖書によるサタンのイメージは、「幽閉された者」であると同時に「歩き回る者」です。それゆえ、黙示録の「閉じ込められた」ことがそのまま「完全に活動できない」ことを示していると結論できません。聖書は聖書によって解釈するという原則を尊重するならば、私たちは、これらの2つの姿を調和させなければならないのです。

それは、やはり、「サタンは神によって自由を束縛されているが、それでもなお限定的な活動を許されている」ということなのです。

 

 

 

 



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