リバイバリズムの弊害
リバイバルを叫ぶ声が巷にあふれている。
「聖霊の偉大なる傾注を!」と叫び、人々はそのために声をからして祈っている。
リバイバルそのものが悪いとは思わない。
しかし、神の国の本質は、リバイバルという非日常的跳躍ではなく、日常的漸進的な着実な進歩である。
まず、芽、葉、そして、花である。
神の国は突然花咲くことはない。
サタンは、花だけを求めさせるのが巧みである。
「こんなコツコツ仕事するのはやめて、もっとパーっと儲かることをやりましょう。」
「こういう集会をやればあなたの教会には人が溢れるようになるでしょう。」
ある教会成長学の大物と言われる教師は、地方で伝道している牧師に対して「そんな田舎でちまちまやってないで東京に出てきなさい。」と言った(教会の牧師が東京で一旗あげてどうなるというわけでもあるまいに…)。
リバイバリズムが広がりを見せた
18-19世紀に、むしろヨーロッパの世俗化が進行したことはけっして偶然の符合ではない。着実に地道に力を蓄えることに目を留めない人や国家が、いつまでたっても貧しいままであるのと同じように、センセーショナルなものに目を奪われているキリスト教界にも未来はない。