律法を拒否することは革命である
よく、Jesus is the Lord. と書かれたステッカーを見かける。
しかし、同時に教会において、「律法に縛られてはなりません。」という文句もよく耳にする。
お分かりだと思うが、この2つの命題は、けっして調和できない。
イエスが主である。と認めているならば、律法を守れ、といわねばならない。
なぜならば、主権を認めるということは、その主権者が定めた法律を守るということに等しいからである。
主権を認めながら、彼が定めた法律を守らないということはできない。
「私はあなたが定めた法律を守りたくても守れないのです。」というならば、彼には敗者復活のチャンスが与えられる。
だから、神の主権を認めているクリスチャンは、「悔い改めます。赦してください。」と祈ることによって復活できる。
しかし、「私はあなたが定めた法律を守る気はありません。」といったら、彼には復活のチャンスはない。
彼は、革命者であって、神の国の中に独立国を建てようとしているからである。
だから、旧約聖書において、安息日に薪を集めた人に死刑の宣告が下されたのは、それが革命行為だったからである。
「薪を集めたくらいで・・・」とは言えない。
彼は、明らかに「安息日に仕事をしてはならない。」という神の命令に故意に逆らった。
律法を守ることそのものを拒否するクリスチャンは、神の国の中において革命者であり、神の敵である。
神の敵が神の国を相続することはありえない。