アダムとエバはなぜ股間を隠したのか?

 

<ご質問>

 第7戒 ヌーディズム:http://www.millnm.net/cgi-bin/home.cgiを読ませて頂き、お便りした次第です。

 私は信仰を持った家庭で育ち、この数年間、より知識的、心情的に宗教学を学んできました(キリスト教に限りません)。
 非常に力強い論理の展開ですね。結論には賛同致します。ただ、私が興味を持ったのは、アダムとエバの堕落の実相です。

 聖書には性交渉が悪と書かれていない事、また、アダムとエバが関係を持った事などは正にその通りですが、しかし恥ずかしくなかったものがある時点を経て恥ずかしくなるというのは、その部分で罪を犯した事を表しているのではないのでしょうか?
 よく、善悪知るの木の実は実際の植物で、その実を食べた事が罪と言う人々がおられますが、もし2人が何か食べていたなら、普通はその証拠を示す部分、口あるいはその実を持っている手を隠しますよね。ところが隠した所が下腹部というのは、どの様にお考えになりますか? 

 また、聖書には性関係を持つ事を「知る」という言葉で置き換えられているのを見る時、実を食べて「知る者」になったとは、そこで2人の間には性的な関係があったように思うのですが。そしてもしそうなら、神は「生めよ増えよ地に満ちよ」と人間を祝福されたのに、なぜその時の行為は悪と認識されたのか。それは、その祝福はアダムとエバに与えられたものであったのに、その関係がこの2人の間で行われたのではないから、とは考えられないでしょうか?もう一つ、エデンの園に存在していたもの。エバはそれに誘惑され、食べた、すなわち知った。アダムが来たのはその後です。

 そこにいた蛇とは、聖書より、人の言葉を話し、神の考えを知り、何千年も生き続けるとなると、ただの普通の蛇では無い。創世記はもとより象徴で記された記録ですし、それが何であったかは聖書で明白にされていますね。

 つまり、私の考えるところにおきましては、堕落は「神の望まなかった」性関係ではないかと思うのですが。最初に罪を犯したエバにとっては、自分の夫となるべきアダム以外の者との関係なので、すなわち不条理な関係ではないかと。

 あの膨大な歴史の集約を何度も読み返され、研究を積み重ねてこられたと存じます。その貴方のお考えを是非とも聞かせて頂けないでしょうか?

 YUKA


<お答え>

メールありがとうございました。
「ヌーディズム(http://www.path.ne.jp/~millnm/nude.html)」をお読みくださりありがとうございました。
まことに、本質を突いたご質問を感謝します。
以下お答えいたします。


<サタンは霊であるためエバと姦淫できない>

仰るように、蛇は、サタンを表しています。
もし、エバがサタンと交渉を持ったとすれば、サタンに肉体がなければなりませんが、サタンは霊なので、肉体はありません(すべての天使は霊であると書かれています(ヘブル 1:14)。サタンは堕天使です。物質世界の創造は、霊的世界の創造の後です(ヨブ38: 7))。

サタンは、人間に取りつくことはあっても(ルカ22・3)、独自に固有の肉体を備えていると聖書のどこにおいても語られておりません。

それゆえ、人間がサタンと姦淫を犯すことはできません。


<エバの堕落の原因は自己神化願望にあり、性交にはない>

創世記3章の文脈から判断できることは、エバが誘惑された原因は、「性欲」ではなく、「自己神化願望」でした。

蛇は、エバを次のように言って誘惑しました。

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 (創世記3・5)

エバは、この誘惑にのって善悪の知識の実を食べました。

つまり、エバは「神のようになり」たかったのです。

エバは、神の禁令を破ることによって、神と同等のものになりたかったのです。神の法の下にいることを望まず、臣下の地位を捨てたかったというのが堕落の原因でした。

さらに、もしエバがサタンと姦淫を犯したということが事実であれば、エバは、アダムの目の前でサタンと性交したということになります。

なぜならば、

「それで女はその実を取って食べ、<いっしょにいた>夫にも与えたので、夫も食べ
た。 」(創世記3・6)とあるからです。

そして、エバとの性交が終わった後で、エバの見ている前で、サタンはアダムと性交したということになります。

これは、あまりにもグロテスクです。

もしこのようなことがあったとしたら、聖書は他の個所においても、この罪について触れているはずですが、一切触れていません。

また、サタンとの姦淫が堕落の原因であれば、聖書の全体的な教えがこの教理を中心に回るはずなのに、聖書は、「自分勝手に善悪を知る(つまり、自分勝手に道徳基準を作る)」ことが人類の根本的罪であるとしていますが、「サタンとの姦淫」がそれであるとは述べていません。

<創世記3章の「知る」は「知識を得る」の意>

性交を示唆する言葉は「知る」という言葉だけで、「知る」という言葉には、文字通りの「知識を得る」という意味もあるのですから、それを「性交」に限定する必然性は、この文脈を見る限りありません。

創世記3・5において、エバが「知」りたがったのは、蛇(サタン)ではなく、「善悪の知識」でした。

もし知る対象が、蛇やサタンの肉体など、他者の肉体であったと言われているならば別ですが、そうではないのですから、そういう場合、素直に「知識を得る」と解釈するのが正当と思われます。

サタンが誘惑したのは、「あなたも善悪の知識を得られるよ」ということであり、実際にエバとアダムが罪を犯した後に、彼らは、自分たちが裸であるという「知識を得た」のです。

創世記3章において、「知る」という言葉は一貫して「知識を得る」という意味として使われているのです。


<股間を隠した理由>

堕罪後の、アダムとエバが股間を隠したのは、「目が開かれ、自分たちが裸であることを知った」(創世記3・7)からでした。

そして、アダムとエバが、神の声を聞いたときに、木陰に身を隠したのは、「裸なので、恐れ」(創世記3・10)たからでした。

彼らは、自分たちが満たされた完全な状態から落ちたことを悟っていました。
もはや裸の状態は、彼らにとって完全ではなく、何かに覆われる必要性を本能的に感じ取っていました。

神は、動物の皮で衣服を作って、彼らに着せてくださいました(創世記3・21)。
これは、人間には、犠牲の命が必要であること、そして、その罪を覆われる必要があること、そして、その罪の覆い隠しは神ご自身が行ってくださるということを象徴しています。

これは、キリストの犠牲を指し示しています。

パウロは、「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13・14)といい、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」(ガラテヤ3・27)といいました。

キリストは、アダムとエバの罪、裸の状態を隠すための義の衣です。

神は、キリストを犠牲のいけにえとして十字架上で殺し、私たちにキリストの義を着せてくださったのです。

アダムとエバが罪に落ちてから、裸の状態は、人間にとって自然の状態ではなく、恥の状態です。
それゆえ、ヌーディスト運動は間違いであり、人間は、裸に帰ることによって聖くなるということはまったくありません。むしろ、人間は、キリストの義を着るべき存在であり、それゆえ、衣服を着用することは、人間の義務であります。

人間の恥の対象が、股間に集中しているのは、人間の本質的な失敗が、「姦淫」にあったからです。

これは、文字通りの姦淫を犯したことにあるのではなく、「霊的姦淫」を犯したからです。

人間の肉体の中で、最も忠誠心を象徴するのは、生殖器です。

性行為は、契約と直結しており、それゆえ、一種の礼拝なのです。

人間は、神の制限の範囲の中で(つまり結婚関係の中で)性行為をすることによって、神を主権者として崇めるのです。

フリーセックスをし、姦淫をする人々は、自分が契約違反者であり、配偶者に対して不忠実である前に、まず、神に対して不忠実であること、つまり偶像礼拝者であることを証明しています。

それゆえ、聖書において、姦淫は「偶像礼拝」と言われています。

「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3・5)

エバが禁断の実を取って食べたことは、神に対する霊的姦淫でした。それゆえ、彼らが最も隠したいと感じた部分は、股間だったのです。

 

 

03/02/12

 

 

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