自然法則と倫理法則を同じカテゴリーに置くことはできない
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ご質問>毎回丁寧な回答ありがとうございます。主張が首尾一貫していて、立場の違いはあれども、素晴らしいと思います。『前提(信仰)の異なる立場を批判するには、相手の前提にいったん立って、内部矛盾を突く以外にはない』とのことですが、全くその通りです。
今回は水掛け論にならないよう、「聖書的キリスト教の前提に立って内部矛盾を突く」ことを試みます。あまりレベルの高くない問いかけですが、また回答よろしくお願いします。
「進化論は人格神の介在を前提としない“偶然”に基づいているため、全てのものごと(世界)の“意味”を否定する“虚無主義”に陥る」ことを、聖書的キリスト教の立場にたつ富井さんは問題にしておられますが、同様の危険性が聖書的キリスト教にも存在すると思われます。
「聖書の神」は全てを超え自然法則にも何にも縛られない「全能の超越者」であり、同時に「契約の神」です。従って、例えば神は「契約」をどのようにでも扱えるはずです。結果的に、契約を「守るかもしれない」し「守らないかもしれない」ことになります。これは「契約」のみの事態ではなく、人格を持った超越者たる神は、「世界を“契約”や“自然法則”などに全く関係なく気まぐれで変えてしまうかもしれない。それは何ら問題なく可能である」ことにもつながります。神が聖書キリスト教の考え通り全能の超越者であるなら、「世界には神が与える“意味”があると同時に、神次第で世界(例えば生命の存在、行動や規範)は、何ら前触れなく突然に如何様にでもなる」ことになります。人間にとってみれば、全くの「偶然」によって、あらゆる事象に遭遇しなければならなくなり、「(人格神による)意味の“意味”」が失われてしまいます。逆説的ですが、聖書キリスト教に基づいた神の捉え方は(人為によらない「偶然」を根底に置く進化論と同様に)、虚無主義に陥る危険性を内包していることを否定できなくなるのです。
聖書の記述を絶対視する聖書的キリスト教の立場にたって考えると、却ってその問題とする「虚無主義」に陥る可能性を否定できなくなると思われます。
以上を踏まえて「相手の前提に立って内部矛盾を突く」ために、以下の問いかけをさせて頂きます。
@なぜ聖書は虚無主義に陥る危険性があるのに関わらず神を上記のように定義するのか。元々の聖書は、神に関して違った記述をしていたのではないか。例えば、「契約だけは絶対守る」などといった“但し書き”が元来はついており、超越者になんらかの“制限”を加えた記述をしていたと考える方が自然ではないか。
A従って、聖書的キリスト教が虚無主義を問題にするのならば、聖書の「神に関する記述」が元来とは違っていると考えねばならないのではないか。そうでなければ虚無主義を問題にすることは出来なくなるのではないか。それとも、「虚無主義は程度の問題で、神が一旦世界に意味を与えている以上、偶然がもたらす虚無主義よりはまし」等と考えるのか。
B今回の「問いかけ」そのものの論理が正しいかどうか。まずいところや欠陥があるとすればどこか。(Bには問いかけというよりは、アドバイスを頂きたいです)
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お答え>御質問ありがとうございます。
この質問はまさに適切な、水掛け論ではない質問であると存じ上げます。
以下の説明でよろしいでしょうか。
神は、自然法則を定め、物体の運動や天体の運行、化学反応などについて法則を定めておられる。しかし、すでに述べたように、神は超越者なので、法則によって縛られることは一切ない。それゆえ、人間は、科学原理を敷衍して行くと当然のことながら陥ることになる宿命論の呪縛から解放される。ヒューマニズムは、その自律的閉鎖的宇宙観を徹底させると、運命論に陥る。
「自然法則だけによって、また、進化の弱肉強食だけの原理によって世界が動いているならば、隣人愛とか福祉とか家族愛などは何の意味があるのだ。結局、それらは幻想ではないか。自然の理に逆らう行為ではないのか。人間に良心の自由はあるのか。社会的弱者を助けるのに何の意味があるというのだ。弱い者は滅び、強い者が生き残るということで世界は成立しているのではないか。」と。
これが、近代のヒューマニズムが陥り、哲学者が頭を悩ました重大な課題である。いくら「弱者を助けよう。」と言っても、それは自然の法則に逆らうことにほかならないということになり、現在我々がよく耳にする「福祉を大切に」というのは、単なる過渡的な現象に過ぎない。水が下に落ちて、上に上っていかないように、いずれ人間社会も、自然の法則にしたがって弱肉強食の世界になっていく、という宿命論からヒューマニズムは逃れられない。サルトルは、自分の虚無主義に逆らって反戦を唱えざるを得なかった。ヒューマニズムは、結局、「人間だけによる至福の世界」と「科学理念の徹底」という二つの要素を調和させることができなかった。
しかし、神が、自然の法則を越えた方、奇跡を行われるお方であるという信仰があれば、そのような宿命論に陥る必要はない。世界は虚無に向って、秩序が崩壊する一方であるという運命論は、自然を超越し、人間を復活させる力のある聖霊の力強い働きによって克服できる。どんなに絶望に陥っても、そこには神の超自然的な助けがあるので、必ずクリスチャンは困難を克服できると信じている。
絶望の淵から立ち直って勝利を得た証言は、多くのクリスチャンから聞くことができる。しかし、自然がすべてであるという世界観にたてば、物事は「物は上から下に落ち、強い者は勝って弱い者は負ける。貧困者は金持ちに隷従しなければならない。」という自然の理から逃れることはできない。
神のこの超自然性こそがキリスト教の命なのだ。復活の力への信頼こそが、人間に希望を与え続ける。「今はこのようなひどい状態だが、必ず主はことを行って、私を解放し、救ってくださる。」と信じることができる。
さて、神は、倫理法則も定められた。そして、この倫理法則は、聖書において「契約」と呼ばれる。神は人間との間に契約を結ばれた。
契約は、絶対に破られないものだ。
「…わたしは…彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。 」(レビ26・44)
「律法の一点一画たりとも、天地が滅び失せない限り、廃れることはない。」(マタイ5・14)
人間は、契約を破る存在である。だから、贖いが必要である。キリストの十字架が必要なのは、人間が契約に違反する者だからである。
しかし、神は、契約を絶対に破らない。ここに社会の基盤が存在する。人間は、神の忠実さに完全に依存することができ、それゆえ、それを全世界において守るべき普遍的基本規則として採用することができる。倫理法則は、神の「義」のご性質に基づくものであるから、神が変化しない限り、法則も変化することはない。この絶対的基礎があるから、各国の政府は、殺人を罰し、偽証を非難し、盗みを糾弾できる。神の倫理法則の絶対性こそ、善悪の判断と法律の最終的基礎である。
聖書において、自然法則と倫理法則は明らかに区別されている。一方は、被造物の性質や運動に関する法則であり、それを破っても神の審判者としての権威を損なうものではない。しかし、他方は、倫理に関するものであり、神のご性質と直結しているため、神が契約を破るならば、それは、神から被造物の審判者としての資格を奪うものだ。契約違反者が契約違反者を裁くことはできない。
倫理法則への違反は、神の絶対性を脅かすものであり、自然法則と同じカテゴリーの中に置くことはできない。
02/03/06
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