ロック音楽の本質
シカゴ大学教授のアラン・ブルームは、ロックの本質はセックスであるといっています。
何年か前に王様というロック歌手が、日本語に直訳された外国のロックのスタンダード曲を歌っていましたが、その歌詞の卑猥なことに驚きました。
かつて、ロック少年であったわたしは意味も知らずにこんな卑猥なことを歌っていたのか、と恥ずかしくなりました。
60年代から70年代にかけてのロック文化に育てられた者として、自分と自分が置かれた環境を反省してみるのですが、やはり、ロックの中心にはサタン礼拝があるようです。
たしかに当時のロックは、今のと比較しても、カリスマが多く、スケールの大きさは別格でした。
今耳にしても「現在のロックならば、興味を覚えなかっただろうが、この時代のロックだったらのめり込んでも不思議ではないなあ。」と感じてしまうほど私は60〜70年代ロックに弱いのです。
初期のころからロックには皮ジャン、リーゼントと反逆のイメージがありましたが、はっきりとしたサタン礼拝の要素は見えなかったのですが、最近のヘビメタと呼ばれるものをはじめとしてロック一般には、サタン礼拝の本質が明確に現われるようになりました。
あるジャケットには神父をおぼれさせて喜んでいるサタンの絵が描かれています。
TVでたまたま見たあるバンドの演奏の背後には、昔のダゴン神の像を連想させる巨大な鳥人間の像が置かれていました。
聖飢魔
IIのコンサートはサタン礼拝(ミサ)であるとバンド自身がはっきりと言っています。GLAYのコンサートなど日本のグループのコンサートにおいて、曲のリズムに合わせて観客が腕を前後に振る動作には、古代イスラエルのバアル礼拝に似た要素が見えます。
イエスが麦と毒麦のたとえで言われたように、どのような思想や活動も、次第にその内実を表すように成長するのです。
ロックの本質はさらにはっきりと現されるでしょう。
教会成長学の有名な教師が、「若者を集めるためには、ギンギンのハードロックを礼拝の前に演奏するとよいだろう。」と言いましたが、文化相対主義に基づいて文化を中立だとすることがどれほど危険かまだ分かっていないがゆえの発言なのでしょう。