切迫再臨信仰のルーツ
キリスト教文明の発展、そして、神の国の拡大において、財産は非常に重要な位置を占めています。
プレ・ミレは、世界の終末が近いので、財産を持つ余裕などないと言いますので、長期的なビジョンに立つ戦略的な伝道ができません。
ビジョンと言ってもせいぜい一世代か二世代どまりです。
かつて、戦後進駐軍とともにやってきたキリスト教の宣教師たちは、東京のど真ん中に多くの土地を持っていたのですが、長期的な戦略がないために、次々とそれらを手放してしまいました。
もし、彼らがポスト・ミレに立ち、長期的な未来のために戦略を立てていれば、土地を確保して、そこを宣教のセンターにしていたことでしょう。今ごろ、東京の中心には多くの教会や、宣教センターができていたことでしょう。あの当時は、アメリカ人にとって東京の土地などは安い買物だったはずです。現在、クリスチャンが東京に教会を建てるには莫大なお金が必要なのです。まことに残念なことです。
ゲイリー・ノースは、プレ・ミレのクリスチャンが大学やロースクールやなど投資の効果が長期的にしか得られないものに投資してこなかったのは、その神学が近視眼だったからだといいました。
「後10年以内にキリストの再臨があり、ハルマゲドンの戦いがある」という説教を聴かされた聴衆が、このようなことのために資財を捧げるわけがありません。
正統的な信仰は、長期的なビジョンを持ちます。短期決戦に駆り立てるのは、サタンの常套手段です。
ヨーロッパの石造りの教会は、一世代で建てられるようなものではなく、人々はそのことを当然と考えていました。教会建設者は、「私の世代では、この教会は完成しないでしょう。だから私は、息子達に期待しているのです。」と言うことを不思議には思っていなかったのです。
しかし、プレ・ミレに立つと、このような長期的な計画はナンセンスに見えます。「再臨が間近だというのに何を悠長なことを…」と。
事実、再臨待望運動の指導者だったホーリネスの中田重治は、教会など掘建て小屋のようなもので十分だと言いました。
プレ・ミレは、「再臨が間近だ」と言い続けて、かれこれ170年も経つが、彼らの預言が当たったためしがありません。ヨーロッパ十カ国同盟はどうしたのでしょう。反キリストは?1989年までに携挙があると言った多くのクリスチャンは今何をしているのでしょう。
このような夢物語を聞かされて、長期的な人生設計を立てる余裕を与えられなかったクリスチャンたちは、ある意味において、ノンクリスチャンよりも、非クリスチャン的な生活を強いられてきたのです。
ノンクリスチャンは、ハルマゲドンなど信じていませんから、長期計画を立てて、自分の老後のこととか、子どもの教育のことを真剣に考えています。しかし、純粋にプレ・ミレの立場に立つ人々は、子どもにクリスチャン的な教育を施して、この世において神の御心がなるように社会を変える人物を育てるというビジョンは見えません。そのため、子どもたちはどんどんキリスト教から離れていき、クリスチャンホームは一代か二代限りで消滅してしまうのです。
アリとキリギリスとどちらが賢いでしょうか?
「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。」(箴言6・6−11)
ソロモンを通して神は、「長期的なビジョンを持て」と教えておられるのです。「今のことしか頭になくて、将来のことに備えない者は怠け者だ」と言っておられるのです。
プレ・ミレは、この怠け者と同じメンタリティーを作り出します。
近いうちにハルマゲドンが起こると信じるならば、当然のことながら、「じゃあ、未来に備えるよりも今さかんに伝道して人々を救いに導くしかない。全世界に福音を伝えれば終わりがくるのだから。」という結論に至る。このような教えによって、確かに、伝道に燃える信徒が生まれるかもしれませんが、しかし、このような情熱は、現実から遊離しているので、彼らは、どうあがいても、いわば「キリスト版出家者」にしかなれないのです。彼らの目は外に向かないので、教会は、内輪の同好会のようになり、クリスチャンはオタク化します。
どのような世界でもそうですが、外部との接点を失った集団は、異常にならざるをえないのです。「この世界はどんどん反キリストの手中に入っていくだろう」と考えるならば、当然、「大学に行って何になりますか?社会の改革をして何になりますか?」といって、自分の殻の中だけですべてのことを完結しようとする。オウム信者が、麻原の預言だけで世界を解釈するようになり、常識がひっくり返って殺人まで犯すようになったように、外の世界と交流を持たず、正当な批判や、公正な学問にまで耳を貸さなくなれば、自分の誤りをチェックして正してくれる人がだれもいなくなるので、どんどん誤謬の深みにはまるようになる。
今日の聖会や伝道大会なるものが異様な雰囲気を持ち、何か狂信的な様相を呈しているのは、クリスチャンが世との接点を「伝道」だけに限定し、世界を変えることを捨てたためなのです。自己満足の集団に魅力があるはずがないですから、耳がどうにかなるかと思われるようなロック調の「賛美」でガンガン訴えても、人々は次第に彼らの底の浅さを見ぬいて近寄らなくなります。
キリスト教を、このような狭い世界に限定したのは、サタンであることに気づくべきです。短期的にしか物事を見ることができなくさせ、クリスチャンの活動をこの世界から遠ざけたのは、異なる霊なのです(*)。
異なる霊によって始まった運動が祝福されるはずもないですから、いくらリバイバルを叫んでも、それが与えられることはありません。
神の御心は、クリスチャンが世の光となって、正しい道を人々に示し、世界の国民を弟子とすることにあるのです。世界の国民に福音を伝えれば終わりなのではなく、「バプテスマを授け、キリストが命じたすべてのことを守るように教え導く」のでなければこの世界は終わらないのです。「御心が天で行われるように地上でも行われるように祈れ」とキリストが命じられたのですから、私たちはそのように地上において神の意思が実現するように働きかけなければ、祝福はなく、また、それゆえリバイバルも起こりません。
(*)新興宗教が、人々を伝道や布教に駆り立てる方法は、このような「切迫感」を植え付けることです。現世の富を軽んじさせ、それを自分に預けさせるには、世界の破局が近づいていると信じ込ませるのが一番です。「あなたの貯金にいくらあろうと、そんなものは、まもなく何の価値もなくなるんだから、教団に御布施をして、終末に備えるのが一番だ。それがあなたの功徳になり、素晴らしい未来を迎えられるのだから」と。
サタンは、クリスチャンが富を蓄積し、この地上において力をつけることを何よりも恐れているのです。「もし、クリスチャンが金持ちになって、宣教や、御言葉の研究や、学校建設や、慈善の働きに多額のお金を使えるようになれば、世界中にどんどん教会が建って、政治においても発言力が増して、ついに、諸国民はキリストの弟子となってしまう。そうだ、彼らが未来に目を向けることを妨害すればいいのだ。」といって、彼は、クリスチャンに長期的なビジョンを持たせないようにあらゆる手を尽くしているのです。
このサタンの虚偽にだまされた人々は、「あと10年以内に反キリストが現われ、大患難が来るだろう。そうなれば、学校を建てたり、政治や経済を改革しようとしても、そんな努力はすべて水泡に帰してしまうわけだ。じゃあ、そんな悠長な話しは脇においておいて、今はひたすら伝道に励む以外はない。」と考えるようになります。