再建主義者はマザーテレサをカトリックだから非難するのか?
吉井春人氏が「再建主義者はマザーテレサをカトリックだから非難する」と言っているので反論します。
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マザーテレサから教えられることは、非常に多い。
いつからか、キリスト教が成功主義(勝利主義)が吹聴されはじめ、やがて「世間で確固たる地位を占めるようになる」ことが至上命令であるかのようにされてきて、信仰の結果を「成功」や「名誉」や「豊かさ」と結びつけるようになって、マザーテレサのメッセージがより一層鮮烈に響くようになってきた。
私は、マザーテレサを尊敬している。
現代にあって、キリストにあって真面目に人生をおくろうと考えるなら、マザーの示すメッセージに耳を傾けて、自分を省みなければならない。
そのように言うと、「彼女はカトリックの修道女ではないか」という声が、「再建主義者」あたりから聞こえてきそうである。「プロテスタント改革主義に立つというのに、異教的カトリックの修道女を褒め称えるのか」とか何とか。再建主義者(セオノミスト)たちにみられる、このような種類の寒々しい非難のしかたはなにも「め新しい」ものではない。
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再建主義者の誰も、マザーテレサのあらゆる行動、思想を、「彼女がカトリックであるがゆえに」否定などしていないでしょう。
こういったレッテル貼りは、むしろ吉井氏の専売特許でしょう。
議論の土俵に乗ろうともせずに、相手の批判を一方的に無視して、「再建主義だからこうだろう」というような批判をだらだらとHPに載せ続ける。
もし「レッテル貼りなどしていません」と公言できるならば、公開議論の土俵に上がることを拒否するはずはありませんでしょう。
マザーテレサについて再建主義が批判しているのは、彼女は「行為義認」を肯定しているからです。
行為義認を認める人をクリスチャンと認めることはできません。
これは、異端であって、異端を容認することは絶対にできません。
この意味において、再建主義者は、「狭量」です。
そして、このような狭量は、聖書が命じているのです。
実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。 (ガラテヤ2・4−5)
パウロは、割礼を強制し、行為義認を唱える人々に対して「一時も譲歩しませんでした」。
行為義認を唱える人に譲歩することは、異端を許容することであり、「奴隷に引き落とそうと」することです。
それゆえ、再建主義者は、行為義認を唱えるがゆえにマザーテレサを拒否するのです。
しかし、再建主義者は、マザーテレサの行為や愛について聖書に基づいた部分を否定しません。
マザーテレサだけではなく、ガンジーでも仏陀でも誰でも、もし彼らが「聖書と合致すること」を述べているならば、彼らの教えの「その部分だけ」を受け入れます。
我々が唱えているのは、「聖書的であるものは受け入れ、聖書的でないものは拒否しよう」ということであって、「これこれの団体、教派、宗教、学派に属するから受け入れよう、拒否しよう」ということではありません。
再建主義を「レッテル貼り」に貶めようとする吉井氏こそ、「レッテル貼り」の烙印を押されなければなりません。
このように「根拠なく主にある兄弟姉妹を批判し続ける」吉井春人氏については、私は、再三の訓戒を行ってきましたが、もうこれ以上の矯正は不可能と判断し、正式に氏を「非クリスチャン」と宣言いたします。
今後、クリスチャンとして、一切の付き合いをお断りし、氏への聖餐授与を拒否いたします。
03/04/17