安息日はまだ存在するか?
>クリスチャンはもうすでに安息に入り、安息日を守る必要はないのでしょうか。
>へブル4章には、まだ安息日が残されていると書かれていますが。
旧約聖書が述べている安息日の概念は、新約聖書においてはキリストという実体において実現されている。
「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」との戒めにおいて前提とされているのは、「聖別」すべき日が存在するということである。
旧約聖書の祭儀において聖別されるべき物は、犠牲の血を振りかけることによって聖くなった。
しかし、新約聖書において、この血による清めは、キリストの十字架によって完遂した。
「神は…その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ1・19−20)
神が御子によって和解してくださったのは、「万物=被造世界全体」である。ということは、時間も含められている。時間は被造物であるから。
そうであれば、今日「聖められるべき日」というのが存在しないのは明らかである。この意味において、旧約時代における安息日は、もはや存在しない。
しかし、それでは、「まだ我々には安息日が残されている」(へブル4・9−10)とあるのはどういう意味なのであろうか。
ここで、クリスチャンは、まだ安息日を守らねばならないと聖書は述べているのではないだろうか。
この安息とは、信仰を最後まで保ちつづけることによって得られる最終的な安息=永遠のいのちのことである。
「…あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。…もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。…信じた私たちは安息にはいるのです。」(3・12、14、4・3)
さて、クリスチャンが救われたという時に、歴史的と永遠的という2つの側面がある。
歴史的に言えば、クリスチャンは現在救いの中におり、すでに復活している。エペソ2・6−7は、「神は、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」と述べている。
頭であるキリストが復活したのであるから、体である教会も復活している。これは、黙示録20・5−6において「第一の復活」と呼ばれている。
しかし、完全なる救い、復活は、新天新地の到来を待たねばならない。万物に永遠の体が与えられる時に救いと復活は完成する。
永遠的な意味では、救い、復活は、まだ実現していない。
これと同じように、安息にも歴史的と永遠的の2つの側面がある。
クリスチャンは、すでにキリストという安息に入っている(マタイ11・28)。時間はすべて聖別されており、どの日を特別な日として聖別し尊ぶ必要はない。旧約聖書においては、神の民は、ある特別な場所と特別な日において礼拝するように定められていた。しかし、万物が聖別された今日、そのような場所や時間に特定されることはもはやない。「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」(ヨハネ4・21)
今日、クリスチャンの体が聖霊の宮=神殿であるといわれている。
しかし、永遠的な意味において完全な安息(永遠の御国)にはまだ入っていない。だから、へブル4・11において「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者がひとりもいないようにしようではありませんか。」と言われている。