日本人よ、三位一体の神に帰れ!

 

最近、化け物が増えている。

通りがかりの女性が可愛かったので、声をかけたら驚かれたので、持っていた包丁で刺した動物の帽子が好きな29才。

小学5年生の女の子を監禁して、風呂にも入らせず、9年間も一つの部屋に閉じ込めた30男。同じ屋根の下にいながら二階で息子が何をやっているかまったく分からなかった母親。

身体障害者をなぶり殺しても反省の一つもできない未青年。

・・・

なんだろう。これは?

どうしてこういった化け物が生まれたのか?

こういった化け物に共通するのは、親の甘やかしである。

親にポリシーがまるでない。

子どもは放っておけば、野獣になると聖書は繰り返して言っているのを無視した結果である。

カルヴァンは、「もし子どもを放任するならば、その子どもはあなたの鼻をそぎ取り、耳を切り取ることだってするだろう」と述べた。

人間の原罪を知らない日本人は、子どもの時代に善悪の区別をきちんと教えることの大切さを理解できなかった。

戦前までは儒教の道徳教育があったし、明治時代も教育勅語という形で、人としての生きる道を教えたものだ。

しかし、こういった化け物を生んだ親たちは、戦後の無神論教育、進化論教育を受けて、道徳についてまるで教えられてこなかった。だから、知恵を得ることなく、子どもに何が正しくて何が間違っていることか教えることができなかった。

子どもには、絶対にやってはならないことを教えなければならない。もし分からないならば、体罰をもってしても体で覚えさせなければならない。体で覚えるならば、それは染み付いて大人になっても離れない。

今日、子どもに対して下している体罰は、サディズムである。逆さにしてものほし竿につるしたり、熱湯風呂に入れてやけどさせたり、こういったのは「体罰」とは言わない。これは、SMである。

こういった馬鹿な親のやることを見てすべての体罰を否定したら、ますます子どもが化け物になる。

障害者や弱い者に対しては、すすんで守ってあげるようにしつけるのがまともな親のやることだ。

日本の企業社会は、経済活動を倫理から切り離した。

つまり、バランスを失った。どんなに会社が金儲けをしなければならないとしても、基本的な人間としての倫理観を失ったら、それは、会社ではなく、化け物である。

企業が社員から倫理観を奪い、社畜にして人権を無視してこき使ったために、親は、子どもにとって最も大切な道徳教育を行う余裕を失った。

日本人は、金を得たが、人間であることを失った。化け物は自分と似た化け物を生んでいる。

親や友人が、子どもや友達に対して、倫理的行動を強制しても、それは拘束ではない。

「盗むな、殺すな、姦淫するな、父母を敬え、隣人のものをむさぼるな」という十戒を子どもや隣人に強制しても、それは強制ではない。

もし、子どもや友人がこれらのことを破っていても注意も罰も与えないならば、その親や友人は、その人を愛していない。彼らは愛のない人々なのだ。

拘束とは、倫理的な規則以外のことにおいて、他人を自分の思い通りに動かそうとすることを言う。

子どもを東大に入れさせたいとか、出世させたいとか、自分が果たせなかった夢を子に託す人々は、子供を利用している。彼等にとって子どもとは愛情の対象ではなく、自分の右腕のようにコントロールできるおもちゃでしかない。このようなエゴイストに育てられた子どもは、歪む。

精神的な問題をかかえている人々の大部分はこういったエゴイストに育てられた人々である。

神を捨てた社会は、このようなエゴイストの群れと、そのエゴイストに利用された哀れな被害者とに二極分化する。

我々は、自分の子どもを道具にしてはならない。子どもは神から預けられた大切な宝なのだ。親は、子どもが神に喜ばれる者に育てなければならない。そのために、親には子どもが「授けられた」。

神が望む人間とは、神の戒めを守る人である。

十戒を守って、正しく地上を管理できる人間である。

このような人に育つように訓練したからと言って、けっして子どもが歪むことはない。たとえ親が子に体罰を加えたとしても、子どもは大人になって感謝するだろう。「ボクの父は、間違った道に入らないように守ってくれた。」と告白して、むしろ、尊敬するだろう。

倫理に関して多様性などあってはならないのだ。

倫理は誰もが守らねばならない基本事項だ。

多様性があってもよいのは、それぞれに与えられた才能や賜物を活かすことにおいてである。つまり、子どもが東大に行こうが、トラックの運転手になろうが、良家の子女と結婚しようが、横丁のタバコ屋の娘と結婚しようが、本人が好むならばいい。

神は、一人であると同時に三つの位格を持つ。神によって創造された世界も一致と多様性とを合わせ持つのだ。

倫理に関しては一致を、文化に関しては多様を!

この原則を知らないと、日本はいつまでたっても、「しつけ」と「虐待」、「矯正」と「拘束」の区別がつかないで、漂流するしかない。

日本政府が、これから、この聖書の原則をわきまえずに、日の丸、君が代など、国家主義教育に傾斜するならば、再び全体主義に進むことになるだろう。

日教組など教員が、それに反対して、無政府主義を説きつづけるならば、倫理もへったくりもない化け物がますます増えることだろう。

三位一体の神を礼拝し、三位一体の神の法を採用しなければ、日本社会は、さらに崩壊と堕落の道に進む以外にない。

日本よ!三位一体の神に帰り、彼を礼拝せよ! それ以外に道はないのだ!

 

01/05/18

 

 

 



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