ノンクリスチャンから独立した学の体系を!

 

 クリスチャンは占いをしない。

 もし占いをしているクリスチャンがいるとすれば、偽クリスチャンであるか、それとも、近日中に裁きを受けるかもしくはすでに受けているクリスチャンである。

 占い、魔術を行うクリスチャンは絶対に神の国を相続できない、とパウロは繰り返している。

 さて、ではなぜそんなに占いは大きな罪なのであろうか。

 ヒューマニズム的観点から見れば、他の誰にも迷惑をかけていないからいいじゃないか、ということになるのであるが、神は占いを非常に忌み嫌っておられる。

 占いの本質は、「未来は神の支配の下にはない。」ということにある。

 神抜きで未来を知ろうとすることは、すなわち、「未来は神のものではありません。」と告白していることなのだ。

 それゆえ、聖書では、「不服従は占いの罪である。」とはっきりと述べている。

 ある領域において神の御言葉に従わないということは、「この領域において神は主ではない。」と告白することと同義なのだ。

 人間や世界のあらゆる領域は神によって創造されたので、あらゆる領域において神は主である。それゆえ、神を主としないで行われるすべての行為は罪であり、占いと同罪なのだ。

 姦淫とは、「性の領域において神は主ではない。」と告白することであり、盗みとは「所有の領域において神は主ではない。」と告白することなのだ。

 それゆえ、十戒のうち第二戒から第十戒は、すべて第一戒「わたしの前に他の神々を置いてはならない。」の言い換えなのだ。

 さて、現代科学は、神は存在するという前提に立っていないので、「知の領域において神は主ではない」と告白することであり、それゆえ、占いと同義である。

 「神を証明することはできないから、創造科学は科学とは呼べない。」という人の「科学」とは、占いと同等の罪なのだ。

 ノンクリスチャンと同じ土俵に立たなければ仕事ができない、ということで、クリスチャンの科学者は、ノンクリスチャンの立てた認識論の体系の中に入り込んでしまった。

 つまり、「一杯のごちそう」と引き換えに長子の権利を売り渡した俗物のエサウと同じことをやってきた。

 そのために、世界のミッションスクールはヒューマニストにのっとられ、学校は占いの場と化した。

 クリスチャンの科学者は、「神を恐れることは知識の初め。」という御言葉に知識の基礎を置くということをしなければならない。

 神を恐れるとは、「神は存在し、聖書は神の御言葉である。」との前提に立つことである。

 なぜならば、「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている。」、「神の言葉につけたしをしてはならない。神があなたをまやかし者と呼ばないために。」と言われているからである。

 「神は存在するかしないか」は議論の対象外としようというモダニストの土俵に立って科学をやっても、相手に食われるだけである。クリスチャンは、預言者であり、神の御言葉を忠実に述べ伝えるために召されたのであるから、彼らの不信仰の体系とは別の「信仰による知の体系」を確立しなければならない。

 もし、そのようなことをノンクリスチャンの間において言うと職を失うというならば、神よりもオマンマを優先させたということで、エサウと同じ人種になってしまう。

 信仰を保ちつつ職を得たいならば、思いきって、現代科学とはまったく異なる独立した学の体系を作り出せばよい。

 エサウが神の国を作ったと聖書に書いてあるだろうか。

 エサウは神の国を相続できなかった。

神の国を相続したのは信仰に立ったヤコブであったということを忘れてはならない。

 

 



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