反証可能性は科学の試金石か?
「懐疑論者のHP」に興味深いことが書いてありました。
「創造科学は、擬似科学である。なぜならば、反証可能ではないからだ。反証可能性こそ、科学の必要条件である。」と。
これは、19世紀以来の実証主義が科学の現場において優勢な地位を占めたがゆえの「科学の定義」であって、歴史上、科学が一貫して経験主義----徹底した実証主義の立場にあったなどということはないのです。
「何事も真理とは、実験と観察による帰納的認識論に基づかねば得られない。」という前提に立てば、「ドグマから出発するものは科学とは言えない。」と結論することができます。それゆえ、「創造科学」のように、「創造は絶対に正しい」という結論が先にあるような「反証不可能」な「科学」を擬似科学呼ばわりすることも可能でしょう。
しかし、「真の知識とは、帰納的実証によってのみ得られる。帰納的実証的認識論だけが科学と呼べるものだ。」という命題が正しいかどうかは誰も証明したわけではなく、むしろ、科学の歴史においては、そうではない定義が圧倒的に長い間優勢だったのです。
このような極端な「科学の定義」が優勢になっている今日の状況の発端は、カント以降の本体・現象二元論にありました。
「本体の世界(霊、神、物事の意味、人生の意味)に属する知識を人間理性は確実に得ることはできないからそれを探ることをあきらめよう。だから、科学と呼ばれる人間理性の認識の活動を現象の世界に限定しよう。そして、その認識の方法は実証的なものに限定しよう。」という約束ごとによって、「科学とは、現象の世界のみについて探る実証的な認識の活動である。」という定義が生まれたのです。
定義されたものであるということは、即、「これだけが真の科学である。」とは言えないのです。それはあくまでも、「近代科学を信奉する人々の約束によって決められた科学の定義」なのです。
だから、彼らが創造科学を科学と呼べない、と言ったとしても、彼らがそう思うだけだということなのです。
人間理性が究極であるという前提に立つ彼らは、「人間理性は限界があり、常に誤りを伴い、その知識は、他者の反証を受ける性質のものなので、絶対的真理と言われる知識・宗教的ドグマなどに関しては、それを科学の対象から外さねばならない。」と結論しますが、しかし、歴史的に見て、カント以前の非経験論的認識論----非ストア派のギリシャ哲学、スコラ学、大陸合理論、唯名論や経験論においても(!)には「科学(愛智)は本体の世界に属する知識をも扱う。その方法は、演繹的であってもよい。」としていたのであり、19世紀中ごろになって、科学において経験主義の立場が圧倒的に優勢になるまで、「実証的経験主義的帰納的に得られた知識だけが科学的知識である」なんて定義はされてなかったのです。(19世紀中ごろ以降も、Humanitiesの分野においては、実証的ではない独自の認識論が有効であると主張する流れがあります)。
もちろん、聖書は、科学をそのようには定義しません。
なぜならば、そもそも、「神の創造を前提とせずに実証的帰納論的に得られた知識(神信仰を前提としない知識)は誤りである。」と述べているのですから。
ベーコンは、「自然は、実験観察による帰納法的知識探求の方法により、神や人生は、聖書を探ることによる演繹的知識探求の方法によって知られる」という科学観を採用しましたが、クリスチャンの科学的認識論は、「もっぱら実証的」ではだめで、「聖書啓示をより深く探る演繹的なもの」が「実証的なもの」の土台(前提)にあらねばならないと考えるのです。
聖書啓示から得られた知識と実証的に得られた知識の関係は、「それを信じることによって、聖書が主張する根本原理が否定されるような知識は誤りである。」という「啓示優位」の関係です。
もし、このような啓示の優位性がなければ、宇宙はUNI-verse ではなく、まとまりのない MULTI-verse になります。
「神の摂理による宇宙の統一」の原理を信じないキリスト教はもはやキリスト教ではなく、多神教です。
もし、科学的知識が多神教を導きださざるをえないものであるならば、キリスト教はそれを断固として拒否しなければならないのです。