子孫を残せ
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ご質問>…私は先日ある方から、一つの質問を頂きました。それは、キリスト教のいう所の、原罪に関するものです。その方が言われるには、『私は、自分が罪びとだと知っているが、その原因がアダムと呼ばれる人類の太祖によるという事が、納得できない。アダムから罪といわれる物が、人類全体に遺伝しているのだとしたら、私たちは、みな赤ん坊として、この世に生まれ出でたその瞬間から、罪びとという事になるはずである。私は自分の子供に罪を負わせる事ができない。私自身その罪のために、たいへん苦しみ悩んで生きて来たからである。だから、その罪を浄化しなければ成らないと思う。その答えとして、私は私の代でアダムから受け継いできた罪を止めようと考えています。私が受け継いできた、罪を浄化する為に、結婚しない、子供はつくらない。
Kさま、私の考えている事は間違っていますか?』私は、この若者(年齢は20歳代)の切実な問題に対する、明確な解答をする事ができません。その為、私個人が、聖書の学びをさせて頂いてたいへん感銘を受けている、ミレニアムページの方に、何卒お力添えを頂きたいのです。
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お答え>ご質問をまことにありがとうございます。
この方の仰るように、私たちは、みな生まれながらに罪人であり、罪を犯すことから逃れることができない者たちです。そして、私たちが子供を産むとその子供も罪人として生まれてきます。ですから、この方の仰るように、罪を広げずに、不幸の種を作らないためにも、私たちは子供を産むべきではないのではないか、と考えても無理はありません。
しかし、私たちは、罪人として生まれてきたと同時に、しもべとしても生まれてきたことを忘れてはなりません。
私たちは、主人として自分の判断で自由に生き方を選択できる者としてではなく、誰かの命令に従い、誰かのために生きる者として生まれてきました。
では、その「誰か」とは誰でしょうか。そうです。創造者です。
私たちは、創造者の命令に服従するために生まれてきたのです。
もし私たちがこの世界の創造者であるならば、私たちは世界の主人として自分の判断に従って生きる権利がありますが、私たちは、この世界の創造者でもなければ、自分の意志によって生まれてきた者でもありません。それゆえ、私たちは、誰一人自分自身の人生の主ではありません。私たちは、自分を造った神の意見に従わねばならないのです。
さて、創造主は聖書を通して「人間は生まれながらに罪人である」と教えていると同時に、「人間は地上に満ちて、地上を支配しなければならない」と教えています。
神はアダムに対して、
「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」(創世記
1・28)と命令されました。また、洪水後のノアに対しても、同じ命令をされました。
「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ。…あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。』」(創世記
9・1、7)私たちは、子供を産まなければならないのです。
これは、神の命令であって、選択の余地はありません。(*)
たしかに私たちは、罪人であり、自分の子どもも罪人として生まれてきます。しかし、キリストを信じて生まれ変わった私たちは同時に、神の子供であり、神の御国を拡大するための兵士であり、開拓者なのです。この働きは、一代で終わるものではありません。子孫を残して、家族が代々神に仕え、この地上に神の御心どおりの世界を現出させなければならないのです。もし私たちがその働きを拒み、無為徒食をし、神の御国のために働く子孫も残さずにこの世を去るならば、厳しい裁きが待っています。
「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ25・14-30)
人生において、神のためにどれだけ働いたか、どれだけ神の御国の拡大のために貢献したかによって、死後の報いが決定するのです。
私たちは、この悪いしもべのように、無為無策で、神の御国の拡大のために働かず、子供も残さず、少しの報いも受け取ることができない者になりたいでしょうか。それとも、神のために大きな成果を収めて、豊かな報いを受けたいでしょうか。
「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。 」(ルカ16・9-11)
(*)
この命令を無視し、子孫を残すことを拒んだオナンは神によって殺されました。
「…オナンは、…兄嫁のところにはいると、地に流していた。彼のしたことは主を怒らせたので、主は彼をも殺した。」(創世記
38・8-10)
02/01/27