「2001年9月スコットランド長老教会大会決議」への批判

 

吉井春人氏が、ご自身のホームページにおいて「2001年9月スコットランド長老教会大会決議」の翻訳を発表しておられるので、内容について批判をしたい。

 

内容において見るべきものは、セオノミーをめぐって存在する、信仰告白と再建主義との間の矛盾及び、聖書と再建主義との矛盾の指摘である。前者については、信仰告白を受け入れている改革・長老主義においては重要性を持つであろうが、その他の派のクリスチャンは、あまり意味がないと思われる。信仰告白が司法律法と道徳律法を区別していようがいまいが、聖書がこの問題についてどう考えているかがわかれば、問題は解決するからである。信条や信仰告白はあくまでも時代的地域的制約を持つという理解がなければ、我々は、単なる人間権威主義の陥穽に落ちるだろう。聖書理解は、歴史の進展に伴って変化するものだ。進展する場合もあれば、後退する場合もある。神の言葉は聖書だけであり、我々は、信仰信条を軽視するものではないが、それを神の言葉と同等に置くことを拒否するものだ。

 

そこで、今回は、セオノミーが聖書と矛盾しているかどうかという問題に集中したいと思う。もしセオノミーが聖書と矛盾しているという「決議」の主張が正しければ、再建主義にとって、きわめて重要な問題提起となるからである。

便宜上、「決議」をKとし、富井をTとする。

 

 

<K>

3 セオノミーは、聖書と調和するだろうか
 セオノミーが信仰告白と矛盾していることを論じてきたのだが、それでも聖書とは調和していると言えるだろうか。いや、信仰告白さえ誤るかもしれない。スコットランドの信仰を導いてきたジョン・ノックスが、聖書に従って我らの信条を形成した。我らもその基準に立つべきであろう。
(1)セオノミーにとっての黄金のテキストは、マタイ5:17−18である。「律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。むしろ、それらを成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決して廃れることはありません。全部が成就されます。」セオノミストは、この箇所を、すべての律法が包括的詳細として新約聖書時代にも有効であるという意味に読む。この読み方は、聖書テキストを奇異に解釈したものだ。この解釈には二つの区別がある。第一には、律法の意味を、倫理的刑法的事柄として狭くとられていることである。第二に、成就されたと翻訳される言葉を、強化と再建と解釈することである。それゆえに、セオノミストは、主イエスが旧約聖書の啓示をお考えになったとき、律法の包括的詳細の強化と再建を教えておられるとする。第一の点にかかわって言うと、主イエスが包括的な意味で、律法と預言者といわれるとき、それは旧約聖書全体の啓示をお考えになっていたことは明確である。さらに重要なのは、「成就すること」を「強化すること」と翻訳する根拠が薄弱なことである。新約聖書を通じて、満るとか、成就するとか、完成するとかいう意味においては、多様な形態で使われている。動詞形では名詞を伴って107回使われている。バンセンが解釈するように強化し、再建するという意味で用いられているとされる箇所は皆無である。

 

<T>

第一には、律法の意味を、倫理的刑法的事柄として狭くとられていることである。…第一の点にかかわって言うと、主イエスが包括的な意味で、律法と預言者といわれるとき、それは旧約聖書全体の啓示をお考えになっていたことは明確である

 

再建主義が、「律法と預言者」という言葉を旧約聖書全体と捉えていないというのは、明らかに誤解である。こんな初歩的なミスを再建主義者のいったい誰が犯したというのであろうか。バーンセンが、これに反することを述べたのだろうか。もし「律法と預言者」を旧約聖書全体の啓示として捉えてはならない、それは、倫理的刑法的事柄に限定すべきである、と言ったとするならば、そのテキストを示していただきたいものだ。

しかし、実際、バーンセンは、”Theonomy in Christian Ethics”(P&R,1984,p.51)において、「『律法と預言者』は広義において旧約聖書を意味する(”law or prophets” broadly denotes the Older Testament Scriptures)」と述べている。このようなレベルの誤解は、批判者として致命的である。読者に再建主義が極端な立場と印象付ける悪意があったとしか考えられない。批判をするならば、きちんとテキストをあげて、実際の言葉を拾ってこなければダメである。神学書をひもとく時間のない読者は、このような無責任な発言によって、間違ったイメージを持ってしまう。もしクリスチャン的良心があるならば、同じ体に属する兄弟姉妹をこのように貶めることはできないはずである。ス長老教会及び翻訳者に猛省を促したい。

 

 

さらに重要なのは、「成就すること」を「強化すること」と翻訳する根拠が薄弱なことである。新約聖書を通じて、満るとか、成就するとか、完成するとかいう意味においては、多様な形態で使われている。動詞形では名詞を伴って107回使われている。バンセンが解釈するように強化し、再建するという意味で用いられているとされる箇所は皆無である。

 

たしかに、ここで「成就する」といわれている、πληρωσαιという言葉(の現在形一人称単数)は、「満たす」とか「完全にする」、「実行する」、「実現する」といった意味である。しかし、バーンセンがこの言葉を「確立する」という意味に解釈したのには、文脈的な根拠がある。彼は、「廃棄するために来たのではない。むしろ、成就するために来た(ouk hlqon katalusai alla plhrwsai.)」において、「むしろ」という接続詞に注目した。「むしろ」と訳されている言葉αλλαは、「純然たる反意接続詞でδεよりもずっと強く、前後の句または節を強く対照させる。…前の文(節、句)に対する反対、中断または別の思想への移行をあらわす」(織田昭編、新約聖書ギリシャ語小辞典)のであるから、πληρωσαιは、καταλυσαιと対照的意味と解釈すべきだ、と述べた。καταλυσαιが、「こわす、くずす、破壊する、廃止する、廃棄する、ゆるめる、くびきをはずす」(同上)という意味であれば、当然、πληρωσαιには、それと対照的な意味があると解釈しなければならない。つまり、「建てる、作り上げる、確立する、絞める、くびきをつける」としなければならないはずだ、と。

 

事実、パウロは、ローマ331において、「信仰は律法を確立する」と述べている。

 

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

 

聖書全体の思想から見ても、マタイ5・17を「イエスが律法を廃止するためではなく、それを確立するために来た」と解釈することは、けっして「根拠の薄弱」なことではない。ス長老教会は、単なる語義の使用頻度を示すだけで、バーンセンの緻密な議論を反駁することができると考えてはならない。

 

健全な理性と精神と良心を持つ読者を納得させるためには、バーンセンや再建主義の著書を熟読し、彼らが膨大な著書において行っている緻密な議論に匹敵するだけのものを提供しなければならない。

 

 

<K>

 

もし、セオノミストの解釈がテキストの正当な扱いに失敗しているとするなら、では、正しい解釈は何か。聖書解釈学の根本的な原則の一つは、聖書をもって聖書を解釈するということである。聖書の他の箇所に、主イエスが旧約聖書の成就について語っておられる箇所はないのだろうか調べてみなければならない。そのようにみるとき、福音書は聖書を成就しておられる主イエスの例で満ちているといことを発見する。一つの例はルカ24:44である。「わたしについて、モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」他の興味深い例は、ヨハネ15:25「これは『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」ここでは、律法を引用するとされながら、詩篇69:4が示されており、この例からしても主イエスは、律法を司法的律法(道徳律法についても)よりも広い意味で理解しておられたことが示されている。

 

 

<T>

 

セオノミストが「律法と預言者」を倫理的刑法的側面に限定しているという、根拠のない思想に頭が占領されているため、「決議」の議論はまったく的を射ないものになっている。繰り返すが、再建主義者は、イエスが成就されたのは、旧約聖書全体であることを認めているのだ。バーンセンは、「律法と預言者」が旧約聖書全体をあらわし、キリストはそれをことごとく成就されたと認めた上で、しかし、強調点は旧約聖書の倫理的側面、戒めに置かれている、と述べている。けっして旧約聖書全体の成就を否定しているわけではないのだ。前に引用した個所の文全体を紹介すると次のようになる。

 

「『律法と預言者』は広義には旧約聖書を意味するが、イエスが強調されているのは、旧約聖書の倫理的内容、戒めである。(”While ‘law or prophets’ broadly denotes the Older Testament Scriptures, Jesus’ stress is upon the ethical content, the commandments of the Older Testament.”)」

 

相手が言っていないことを批判していったい何になるのか?蜃気楼の軍隊を攻撃して勝利できるだろうか。批判するなら、まず相手のことをよく知るべきである。こちらがそのようなことを述べているならば、テキストを引用すべきである。再建主義の批判者に共通するのは、このような「思い込み」である。はなから、相手を否定してかかっているため、自分の目が曇って、批判する相手が見えない。

 

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。(マタイ73-5

 

 

<K>

 

主イエスはどのような意味で、旧約聖書の司法的律法を実現されたのだろうか。キリストは私たちを義と認めるため、我らを聖化するために従われたのであれば、それは道徳律法を実現されたということと同じ意味なのだろうか。同じ意味で、儀式及び食物に関しての律法を成就されたとすれば、それらはもはや効力がないのではないか。これは疑問の核心部分である。セオノミストは、司法律法は道徳律法の一部にしか過ぎないと主張する。信仰告白は、司法的律法は、廃棄されたと述べる。どちらが新約聖書の教えなのだろうか。どちらかが正しいのであって、「両方とも正しい」ということはありえない。

(2)新約聖書のいくつかの箇所は、マタイ5章と司法的律法を関係づける。山上の説教の主なるねらいは、倫理的であると認める一方で、強調されている点が、市民的司法的な面に及ばないように避けられている。神の国の主な関心は、市民的司法的なものではなく、律法の霊的倫理的な適応にある。しかし、主イエスは殺人、姦淫、離婚、艱難や迫害についても述べた。
すべて、市民的な観点を持つ。それにもかかわらず、離婚に関して(マタイ5:31-32)主は律法の市民法的な適応を廃棄された証拠ともなる。(「離婚」p27)ジョン・マーレーは、主はその権威をもって、離婚についてモーセ律法がもっているコードを取り外しておられるのだと示している。「それまでになかった目新しいことがここにみえる。主から事が始まるという摂理のなかで、姦淫への死刑適応は、廃止された。ここに、主が教えられたことによる2つの立場がある。一つは、消極的他方は積極的。主は、モーセ律法にあった姦淫への罰則を廃止され、姦淫を離婚の正当な理由とされた。一方で、姦淫罪への死刑適応が廃止され、離婚がそれにかわることで、罪ない側の夫が、姦淫を犯した側に対する刑事罰則について、寛大な処置を示されているのだといえる。他方では、モーセ戒律の廃止において、我々は道徳的判断と法制化にさらなる厳格さが増し加わっていることを見いだす。

 この点は、山上の説教すべてにわたる主旨、及び主イエスの教えとその姿勢のすべてにおいて守られている。主は神の律法を道徳的霊的標準において、より高い位置を要求されているが、モーセ律法の罰則的な厳格さを緩和しておられる。この立場は、ウエストミンスター起草者たちが、第19章4節の引用としてマタイ5:175:38.39を引用するときの理解の仕方であったことは明かである。ゲルハルドス・ボス(Biblical Theology p387)は次のような一般原則を提示した。神が啓示を通じて律法をお与えになったゆえに律法は効力をもって永久に残される。ただし、神聖政治において、生活おける規律制定に対して一体誰が権威を行使したのかという一つの疑問があるのであり、ここでは単に主イエスのメシアとしての権威がそれにあたるとみなされる

姦淫を犯した女への主の取り扱いが例証される。(ヨハネ8:1-11 テキスト本文が疑問視されるが、それにもかかわらず本質的な出来事として記録された)姦淫について無罪であるものだけが死の裁きを与えるべきであるのなら、主イエスだけがそのことが可能な方である。主が裁きを拒まれたという事実は、モーセ律法の罰則規定がもはや効力がないものと判断されたことを意味する。これは、主のその他の態度とも調和している。収税人やサマリヤの女のような罪人とご一緒に過ごされた。(ヨハネ4章)市民的な権威に引き渡されるような示唆は、少しもみられない。主は、姦淫の罪をおかしながら、バプテスマのヨハネの説教によって、悔い改めた者を誉めておられる。(マタイ21:31-32)(モーセ律法の縛りの下にあっては、姦淫は大罪であった)

使徒パウロは、明白に主イエスに従った。第一コリント5章で、近親相姦の罪を犯した教会員に死刑ではなく、むしろ除名を命じている。除名を命令しながら、「悪い人をあなたがたの中から除きなさい」という表現を使っている。これは、あなたがたの中から悪を除きなさい(申命記17:7 19:19 21:21)70人ギリシャ語約聖書からの引用である。これは、モーセ律法の文脈においては、性的な罪を含む数々の罪に対しての死刑について語るところである。この箇所は、新約聖書において、キリストの王国においては、司法的罰則が教会訓練、及び除名を伴う戒規に置き換えられていることを明示している。つけくわえるなら、もちろん、第二コリント2:5−11は、教会訓練の究極的目標が、悔い改め、赦しと復興であり、滅ぼすことではないことが示されている。セオノミストは、主イエスとパウロのこれらの態度は、当時の特別な政治的環境のなかで、厳格な態度がとれなかったことによるのだと主張している。もし、神の律法への包括的かつ詳細な服従が破棄されていないなら、異教ローマの支配下で生活していたゆえに、主イエスであれパウロであれそのような義務を免除されていたのかもしれないということになる。確かにすべての民族は、どんな時でもどんな国にあっても神が命じておられることに従うように拘束されているゆえに、もしセオノミストが論ずるようにモーセ律法の市民法が含まれているというなら、主イエスもパウロもローマの行政官にそれに対する義務を要求した筈ではないだろうか。ユダヤ人が自らの判断で死刑を執行することをローマ政府が許さなかった場面があったにもかかわらず、主イエスやパウロが試練を受けた際に、ローマ側にそれをほのめかすことくらいはできたのではないか。
主イエスもパウロも旧約聖書における司法的律法の適応を求めなかったという事実は、セオノミー神学を埋葬するために用意した棺(ひつぎ)への最後の打ち釘となるだろう。

 

 

<T>

このレベルの議論で、セオノミー神学を埋葬できるなら、とっくの昔に再建主義はこの地上から消え去っていただろう。ある教派の公式見解としては、あまりにも幼稚なので半ばあきれて二の句が告げないというのが本音である。

 

「主イエスもパウロも旧約聖書における司法的律法の適応を求めなかった」のだろうか。

 

パウロは、ローマ13章で、「市民的権威への服従」を説き、為政者には「死刑」の権限が与えられている、と述べている。しかも、それを、律法に基づいて語っている。

 

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。…彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。…「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。 (ローマ131-9

 

 また、「労働者への賃金の支払い義務」について、彼は、旧約聖書の律法に基づいて議論している。

 

モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。 それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。(1コリント94-11

 

 「いやいや、これは、司法律法ではないでしょう。」と言うならば、では、尋ねたい。いったいどれが司法律法で、どれが司法律法ではないのか。その区別の基準は何か?「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」というのは、労働者の報酬を保証した司法律法ではないのか。

 

 日本語において「司法」とは、「紛争解決のために法を適用して、一定の事項の適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する行為。形式的には、司法機関たる裁判所の権限に属する国家作用」(大辞林)である。

 

 英語のjudicial は、「法廷に関係する、裁判の施行に関する、裁判所が宣言した、裁判所が手続きをした」(The American Heritage Dictionary of the English Language: Fourth Edition,2000.)という意味である。

 

 労働者の権利を保障する法律が、どうして「裁判所の権限に属」さない、または、「法廷に関係」していない、ということができるのか。

 

 この「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」という律法は、労働者の権利を保障した律法であり、イスラエルの裁判において取り扱われる法律だったことは明らかである。

 

<K>

 

(2)新約聖書のいくつかの箇所は、マタイ5章と司法的律法を関係づける。山上の説教の主なるねらいは、倫理的であると認める一方で、強調されている点が、市民的司法的な面に及ばないように避けられている。神の国の主な関心は、市民的司法的なものではなく、律法の霊的倫理的な適応にある。しかし、主イエスは殺人、姦淫、離婚、艱難や迫害についても述べた。
すべて、市民的な観点を持つ。それにもかかわらず、離婚に関して(マタイ5:31-32)主は律法の市民法的な適応を廃棄された証拠ともなる。(「離婚」p27)ジョン・マーレーは、主はその権威をもって、離婚についてモーセ律法がもっているコードを取り外しておられるのだと示している。「それまでになかった目新しいことがここにみえる。主から事が始まるという摂理のなかで、姦淫への死刑適応は、廃止された。ここに、主が教えられたことによる2つの立場がある。一つは、消極的他方は積極的。主は、モーセ律法にあった姦淫への罰則を廃止され、姦淫を離婚の正当な理由とされた。一方で、姦淫罪への死刑適応が廃止され、離婚がそれにかわることで、罪ない側の夫が、姦淫を犯した側に対する刑事罰則について、寛大な処置を示されているのだといえる。他方では、モーセ戒律の廃止において、我々は道徳的判断と法制化にさらなる厳格さが増し加わっていることを見いだす。

 

 

<T>

 

神の国の主な関心は、市民的司法的なものではなく、律法の霊的倫理的な適応にある。しかし、主イエスは殺人、姦淫、離婚、艱難や迫害についても述べた。

 

神の国の主な関心は、創造の全域に及ぶというのが、ヴァン・ティルの主張である。彼は、キリスト教の目標は、「『全世界を』キリスト礼拝の場と変えること」であると述べている。

さらに、ス長老教会は、ジョン・ノックスを師と仰ぐはずである。ご存知のとおり、ノックスは、スコットランドの政治を神の国の関心として捉えていたのではないだろうか。彼は、次のように述べている。

 

「これは、冒涜者だけが述べていることではなく、聖霊が我々にこの無謬の真理を教えてくださった。すなわち、ある国家において不義がはびこり、そして、それを大胆かつ公然と非難する者が誰もいなかった場合には、突然、報いと破壊がやって来る。」

 

これが、「市民的司法的な」関心でなくてなんだろう。また、彼はエゼキエル22章を引用した後で、次のようにも述べている。

 

「ご注意あれ。これらは、死すべき人間の言葉ではなく、永遠の神の御言葉である。そして、それはただエルサレムに対してだけ向けられたのではなく、罪を犯しているすべての王国や国民にも向けられている。」

 

これが、どうして、「市民的司法的な」関心ではないのだろうか。ノックスは、エゼキエルの言葉を霊的倫理的な適応(ママ:「適用」が正しい)」として用いたのであろうか。

 

また、ス長老教会は、カルヴァンをも師と仰いでいるはずである。カルヴァンは、次のように述べた。

 

「すでに見たように、この務め [為政者の務め] は、神によって特別に定められたものなのだ。それゆえ、彼らが、自分を副官として任命し、自分に統治をゆだね給うたお方の栄誉を主張し、それを守るために粉骨砕身努力することは、まさしく正しいことなのだ。…律法の第2の板について、エレミヤは統治者に対して次のように述べている。『主はこう仰せられる。公義と正義を行ない、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない』(エレミヤ22・3)…。それゆえ、彼らは、公共の純潔と謙遜、栄誉、安寧を守る守護者として任命されたのであり、それなるがゆえに、彼らは、市民に平和と安全を提供することのみに尽力しなければならない。これらについて、ダビデは、自分が王座に座った時には、自ら手本を示そう、と宣言した。『曲がった心は私から離れて行きます。私は悪を知ろうともしません。陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします。高ぶる目と誇る心の者に、私は耐えられません。私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます』(詩篇101・4-6)。しかし、統治者は、公共の安寧を乱し、人々を困らせる悪人の攻撃から善人を守り、抑圧されている人々に助けと保護を与えることをしない限り、このことを為し得ないのであるから、彼らには悪人と犯罪者を抑え込むために必要な権力が与えられている。」

 

さて、これは「市民的司法的な」関心ではないのだろうか。これは、統治に関する見解ではないのだろうか。カルヴァンは、ここにおいて律法をもっぱら「霊的倫理的」に適用しようとし、「市民的司法的適用に及ばないように避けた」のであろうか。

 

読者がお気づきのとおり、ス長老教会は、自分の師であるノックスやカルヴァンの伝統から離れてしまった。彼らは、最近流行の、「キリスト教は、市民的司法的な関心を持たない」というディスペンセーショナリズム的謬説に毒され、カント流の「霊肉二元論」に陥ってしまった。

 

 

<K>

 

ジョン・マーレーは、主はその権威をもって、離婚についてモーセ律法がもっているコードを取り外しておられるのだと示している。「それまでになかった目新しいことがここにみえる。主から事が始まるという摂理のなかで、姦淫への死刑適応は、廃止された。ここに、主が教えられたことによる2つの立場がある。一つは、消極的他方は積極的。主は、モーセ律法にあった姦淫への罰則を廃止され、姦淫を離婚の正当な理由とされた。一方で、姦淫罪への死刑適応が廃止され、離婚がそれにかわることで、罪ない側の夫が、姦淫を犯した側に対する刑事罰則について、寛大な処置を示されているのだといえる。他方では、モーセ戒律の廃止において、我々は道徳的判断と法制化にさらなる厳格さが増し加わっていることを見いだす。この点は、山上の説教すべてにわたる主旨、及び主イエスの教えとその姿勢のすべてにおいて守られている。主は神の律法を道徳的霊的標準において、より高い位置を要求されているが、モーセ律法の罰則的な厳格さを緩和しておられる。

 

 

<T>

 

マタイ5・32から、「キリストによって離婚に関する規定が改変された。姦淫への死刑適用は廃止された」と結論することは、明らかに間違いである。なぜならば、「姦淫を離婚の正当な理由」としたのは、何もキリストが初めてのことではないからである。

 

すでに、申命記241において、「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。」とある。

古来、この「恥ずべきこと」という言葉をめぐって議論があった。

シャンマイ学派は、これを「姦淫」と解釈し、ヒルレル学派は、これを「あらゆるささいなこと」と解釈した。後代にこの解釈は拡大され、紀元2世紀のラビ・アキバは、人が妻を「気に入らなくなった場合」という言い方を力説して、今の妻より好きな女、美しい女を見つけた場合にも離婚できるとした(増田誉雄、新聖書注解(いのちのことば社)・新約第1149ページ)。

 

キリストは、明らかにこの個所について、シャンマイ学派の解釈に軍配を上げられたのである(後藤茂光、新聖書注解(いのちのことば社)・旧約第1632ページ)。ということは、旧約聖書においてすでに、「姦淫者は必ずしも死刑に処せられない」ということが言われていたということである。

 

おわかりだろうか。マーレーが言うように、もし「新約聖書においてキリストが『姦淫者には離婚状を渡せ』と言われたことは、姦淫の刑罰への死刑適用が廃止されたことを意味する」ということが本当であれば、では、申命記241において「姦淫した妻に離婚状を渡し、家を追い出さねばならない」という律法は、一体何を意味するのか?ここにおいて、すでに「姦淫、即、死刑」という図式は崩壊しているではないか、ということである。

 

実際、旧約聖書においても、新約聖書においても、「姦淫、即、死刑」という図式は存在しない。

マタイ119において、「義人」ヨセフは、マリアが妊娠をしたことを知って、彼女を「内密に去らせようとした」と記されている。マーレーやス長老教会の解釈に従えば、ヨセフは「義人」であるはずはない。なぜならば、聖書において「義人」とは、律法を守る人のことだからである。マーレーやス長老教会のように、旧約聖書においては、「姦淫、即、死刑」という図式が存在したという前提を立てると、ヨセフはマリアを処刑しなければならないはずである。そうしなければ、「義人」どころか、「無律法主義者」になってしまう。

 

彼らは、律法の大原則を見失っている。律法の大原則は、「刑罰は、その直接の被害者が決定する」ということである。律法において、一方において、「姦淫を行った者は石で打たれねばならない」とあるのに対し、他方では、「離婚状を渡して家を去らせよ」とある。姦淫を犯した妻の直接の被害者である夫は、彼女を死刑にすることも、離婚状を渡して家を去らせることも、もしくは、その罪を赦し、すべてを帳消しにすることも可能だったのだ。

 

これ以外に、マタイ119を合理的に理解することは不可能である。

 

セオノミーの立場に対する一方的な誤解は、批判者が、「セオノミーを現代社会に適用すれば、姦淫者は即死刑に処せられる」という恐怖の念を伴う「思い込み」があるからである。

 

我々は、そのようなことを述べていない。

 

我々は、「旧約聖書の律法には、永続的な拘束力がある」と述べる。しかし、それは、「律法の規定を文字どおりそのまま適用すべし」ということを意味していない。なぜならば、律法には、同害刑法の原則があるからである。刑罰はその罪の大きさによって決定される。律法に記されているのは、あくまでも「最高刑」なのだ。

 

「目には目を」は、「目をやられたら、必ず相手の目を損なわねばならない」ということを意味しているのではなく、「目を損なう以上のことをしてはいけない」ということを述べている。目をやられた人は、相手の目を損なうことはできても命を取ることはできない。目か、それ以下の被害を相手に与えることができる。場合によっては、目に相当する損害金を受け取ることもできるし、すべてを帳消しにして何もなかったことにすることも可能である。

 

イエスは、自分を理由なく殺そうとしている人々を赦された(ルカ2334)。

 

もちろん、律法によれば、理由なき故意の殺人の最高刑は死刑である。イエスには、死刑を要求することもできたが、そうされなかった。もし、この行為を「律法を超越して、愛の業をなされた」と解釈するならば、イエスは律法の成就者ではなくなってしまう。もちろん、イエスは、無律法主義者ではない。

 

あくまでも、イエスの来臨の目的は、律法の要求を完全に満たすことであって、律法を超越することではなかった。イエスの行動は、どれ一つとっても、すべて律法にかなったものであり、律法に根拠を持つものだ。彼は、完全な遵法者であって、今日の様々な教派が主張するように無律法の情緒的愛を行ったわけではない。

 

マーレーやス長老教会が言うように、キリストは、「モーセ律法の罰則的な厳格さを緩和し」たわけではなかった。「律法の一点一画たりとも地に落ちることはない」のであり、「小さな戒めでも破るように教える者は、御国においてもっとも小さい者と呼ばれる」のであれば、我々は、聖書的根拠なく旧約律法の規定を「緩和」してはならない。

 

姦淫は今日においても死刑に値する罪である。しかし、罪人を死刑にするか、離婚するか、罪を帳消しにするかは、被害者である配偶者が決定できる。ヨセフは、律法の規定に従って、マリアを離婚しようとした。イエスが、自分を殺す者の無罪を要求されたように、被害者は相手の無罪を求めることもできる。

 

マタイ517は、クリスチャンが、行動と思考において、聖書法的に根拠のないことを行ってはならないと示している。

 

<K>

姦淫を犯した女への主の取り扱いが例証される。(ヨハネ8:1-11 テキスト本文が疑問視されるが、それにもかかわらず本質的な出来事として記録された)姦淫について無罪であるものだけが死の裁きを与えるべきであるのなら、主イエスだけがそのことが可能な方である。主が裁きを拒まれたという事実は、モーセ律法の罰則規定がもはや効力がないものと判断されたことを意味する。これは、主のその他の態度とも調和している。収税人やサマリヤの女のような罪人とご一緒に過ごされた。(ヨハネ4章)市民的な権威に引き渡されるような示唆は、少しもみられない。主は、姦淫の罪をおかしながら、バプテスマのヨハネの説教によって、悔い改めた者を誉めておられる。(マタイ21:31-32)(モーセ律法の縛りの下にあっては、姦淫は大罪であった)

 

<T>

 

主が裁きを拒まれたという事実は、モーセ律法の罰則規定がもはや効力がないものと判断されたことを意味する。

 

これは、イエスの職務に対する重大な誤解であり、ある意味において、異端的解釈である。すなわち、ス長老教会は、どのような言葉を使ったとしても、ここにおいて「イエスは、律法の規定を破った」と述べている。

イエスは、律法の成就者として来臨され、それをすべて成就されたのではなかったか。イエスは、その誕生の時から、死に至るまで、完全に律法を守られたのではなかったか。

イエスが、律法の規則にのっとらずに、ある罪を赦すならば、それは、イエス自ら、「律法を破ってもよい」と公言することになる。

あくまでも、聖書が啓示しているのは、「律法は一点一画たりとも廃れることはなく、イエスはそれをすべて成就するために来られた」ということである。それならば、ある罪について、それを律法の規定によらずに赦すことは、絶対に「律法を成就した」ことにはならない。

 

ここで、イエスが姦淫の女を赦されたのは、イエスご自身が姦淫の直接の目撃者でも、直接の被害者でもなかったからである。律法は、姦淫を訴えることができるには、当該の罪を犯していない二人または三人の証人がおり、その罪を直接の、当該の罪を犯していない被害者である配偶者が訴える場合だけである。span>

 

しかし、このケースでは、訴えた人々は、証人でも直接の被害者でもなく、しかも、当該の罪について潔白ではなかったので、そもそも、この告発は法的に有効ではなかった。そして、イエスご自身も直接の目撃者ではなく、証人の要件を満たしておられなかったし、そもそも、この告発自体が、女をだしに、イエスを罠にかけるための、不純な動機に基づくものであったため、たとえイエスご自身が目撃者であったとしても、その女を告発することはなさらなかったであろうと推測できる。

 

この点については、Theonomy in Christian Ethics においてバーンセンが詳細に論じており、ス長老教会がもしこの問題を扱うならば、バーンセンの議論を踏まえた上で論を展開しなければならないのに、まったくそれについて触れていない。これは、明らかに批判者としては不誠実である。ちゃんとバーンセンの議論を紹介し、彼の実際の言葉を引用し、それに対して批判を行うべきである。

 

また、イエスが収税人や売春婦と行動をともにし、彼らを責められなかったのは、彼らが悔い改めていたからである。収税人ザアカイは、盗みとったものを律法の規定に従って被害者に返すと述べた。それに対して、イエスは、「救いがこの家に来た」と述べられた。イエスが罪人とともにおられたのは、「いいよ。堅いことは言わないから。」と、いまだに売春を続けていたり、悪辣な取り立てをする者たちをそのままの状態で赦したからではない。

 

「イエスは律法の規定を廃棄し、罪人を悔い改めなしに受け入れていた」ということが本当ならば、イエスは、律法の成就者にはなりえない。いや、むしろ、このように言う人々は、キリストを「無律法主義者の元祖」とする。

 

黙示録に現れたイエスは、クリスチャンに対して厳格な悔い改めを要求された。もし悔い改めるなら、交わりを回復し、悔い改めないなら、教会を滅ぼすとすら宣言された。

 

「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」(黙示録2・5)

 

「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3・19-20)

 

このように悔い改めを迫るお方が、罪を犯して悔い改めない無法者たちと付き合うだろうか。聖書が、イエスとともにいた収税人や売春婦に対して好意的に書いているのは、「彼らが悔い改めた人々」であったからである。それに対して、パリサイ人たちが否定的に書かれているのは、自分を義として、自分の罪を反省せず、悔い改めを拒んでいたからである。

 

また、「決議」は、イエスが「罪人を司法に引き渡すことをされなかった」ことを、「司法律法の適用を廃棄されたから」と言うが、これも、前述と同様に、イエスを無律法主義者とする誤謬である。「司法律法の適用を廃棄された」というのが本当ならば、そこにおいて、イエスは「律法を成就されなかった」ということに等しい。

 

イエスが売春婦や収税人などを権力に引き渡されなかったのは、繰り返しになるが、「罪を積極的に悔い改めていたから」である。悔い改めた者をどうして権力に引き渡す必要があるだろうか。さらに、たとえ権力に引き渡す必要があるとしても、律法にのっとって、それに必要な合法的手続きを取るべきである。つまり、収税人や売春婦によって被害を被った直接の被害者が、二人または三人の証人を連れて、裁判所に訴えることである。もちろん、これは直接の被害者ではないイエスの仕事ではない。また、たとえイエスが直接の被害者であるとしても、イエスの使命を考える時に、そのような訴訟の権利を主張されるとは考えにくい。なぜならば、聖書は、イエスは訴えるためにではなく、赦しを与えるために来られたと述べているからである。

 

「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」(ヨハネ12・47)

 

また、たとえイエスが訴えるようなことがあったとしても、そのような記事を福音書が記すとは考えにくい。なぜならば、福音書の主題は、イエスを「救い主」として描くことだからである。瑣末な市民的訴訟に紙面を割く必要はまったくないと言ってよいだろう。

 

それゆえ、このような福音書の主題を逸脱した瑣末な部分について記されていないからといって、すぐに「司法律法を廃棄された」と結論することがいかに的外れであるか火を見るより明らかである。

 

「決議」は、このような的を外した議論に満ちている。このような低レベルの批判をするのは、正統主義から根本的に逸脱しているからにほかならない。

 

猛省が必要である。

 

 

<K>

 

この点は、山上の説教すべてにわたる主旨、及び主イエスの教えとその姿勢のすべてにおいて守られている。主は神の律法を道徳的霊的標準において、より高い位置を要求されているが、モーセ律法の罰則的な厳格さを緩和しておられる。

 

<T>

 

司法律法は廃棄されたという考えが間違いなのは、「神は新約聖書において、司法的分野については、倫理的中立、倫理的真空を作られた」と主張しているからである。

旧約聖書において、市民生活に関して規定があったならば、新約聖書においても、それはあるはずである。旧約聖書において取り扱われていた分野が、新約聖書になって消えてしまうということがあるだろうか。「律法」は一点一画たりとも廃れることはない。

 

旧約聖書においては、市民的生活について指針があったが、新約聖書においては教会的生活の指針だけになった、などという教えと、「律法は一点一画たりとも廃れることはない」というイエスの教えとどうして調和するだろうか。旧約聖書においては、神は人間の生活のあらゆる分野について教えておられたが、新約聖書においては、宗教的生活の分野に限定された、などということがどうしてあるだろうか。

 

神は、不変であり、万物の創造者である。被造物である人間は、生活のあらゆる領域において神に服従する責任がある。これは、旧約聖書、新約聖書を問わない。旧約聖書においても、新約聖書においても、神はこの責任を人間に要求しておられる。

 

であるならば、なぜ、「旧約聖書の基準が新約聖書になると緩和もしくは限定された」ということがあるだろうか。緩和(もしくは限定)されたならば、そこに「中立」「真空」の領域が生まれる。

 

現代の教会は、この領域に、ヒューマニズムを入れる。人間の頭の産物を神の知恵の代わりに入れている。これは、明らかにローマ・カトリックの「自然理性信仰」と同等の誤謬である。

 

宗教改革において確認されたのは、「聖書のみ」の原則である。ヴァン・ティルにおいてさらにこの原則は徹底された。世界に存在するあらゆる領域について、人間は神の知識に完全に依存し、自分勝手に考えることを許されていない、とした。

 

ス長老教会のような立場は、実質的に「神の法には抜け穴がある」と述べているに等しい。

 

「いやいや、人間には聖霊の一般恩恵があるから、ノンクリスチャンでも正しいことを考え行うことができる」と、言うだろうか。

 

たしかに、ノンクリスチャンは神の被造物であるから、そのうちに神の形はあり、また聖霊の抑制の恵みは働いているだろう。しかし、だからと言って、「ある分野について神の基準はいらない」ということはできない。この二つの問題は、互いにまったく別の次元の問題である。

 

それでは、「ノンクリスチャンにも神の形はあり、理性や良心はある。また、抑制の恵みも働いている。だから、様々な生活の領域に関する法律は必要ない。すべて彼らの判断にゆだねよう」といえるだろうか。

 

我々は、「基準と実際」を混同してはならない。これらは互いにまったく別の問題である。

 

神は人間に、聖霊を与えられただけではなく、基準もお与えになった。ヴァン・ティルは、エデンの園において、自然啓示だけではなく、すでに特殊啓示は存在し、それは、必要不可欠な部分であった、と述べている。人間の理性と良心が完全であった時代においてすら、すでに神の特殊啓示は存在した。つまり、園において、アダムには、自然だけではなく、「統治命令(創世記128)」と「禁令(116-17)」が与えられた。

 

今日流行している「聖霊に導かれよう」との立場は、一面において真理であるが、「特殊啓示」についての理解が欠けているので不健全なのだ。「聖霊の導きに従えば、正しいことを行える」ということは一面の真理であるが、同時に、人間には「聖書」という特殊啓示が必要である。

 

完全な人間アダムにおいて「特殊啓示」が必要であるならば、堕落後の人間においてはなおさらである。

 

堕落後の人間にも、理性と良心は残った。しかし、それだけでは、人間は、時間とともに、その本質の腐敗を表面化し、逸脱と堕落に向かう。

 

人間には、絶対不変の基準が必要なのだ。そして、それに「抜け穴」があってはならない。なぜならば、全世界は、ことごとく神の創造によるものであり、神の所有だからであるだけではなく、人間理性や良心に信頼が置けないからである。

 

ス長老教会のように「神の国の主要な関心は「市民的司法的関心」ではない」とすれば、キリスト教は、生活のほとんどの部分を人間の自律理性にゆだねてもよいと主張することになる。「抜け穴」どころではない。ダムで言えば、「決壊」である。

 

「霊的・倫理的」領域と、「市民的・司法的」領域を区別し、キリスト教の扱う領域を前者に限定することは、世界をサタンに売り渡すのと等しい。カルヴァン・ノックスの伝統に従うといいながら、ス長老教会の律法観は、カトリックやアルミニアンのそれと等しい。

 

 

<K>

 

使徒パウロは、明白に主イエスに従った。第一コリント5章で、近親相姦の罪を犯した教会員に死刑ではなく、むしろ除名を命じている。除名を命令しながら、「悪い人をあなたがたの中から除きなさい」という表現を使っている。これは、あなたがたの中から悪を除きなさい(申命記17:7 19:19 21:21)70人ギリシャ語約聖書からの引用である。これは、モーセ律法の文脈においては、性的な罪を含む数々の罪に対しての死刑について語るところである。この箇所は、新約聖書において、キリストの王国においては、司法的罰則が教会訓練、及び除名を伴う戒規に置き換えられていることを明示している。つけくわえるなら、もちろん、第二コリント2:5−11は、教会訓練の究極的目標が、悔い改め、赦しと復興であり、滅ぼすことではないことが示されている。セオノミストは、主イエスとパウロのこれらの態度は、当時の特別な政治的環境のなかで、厳格な態度がとれなかったことによるのだと主張している。もし、神の律法への包括的かつ詳細な服従が破棄されていないなら、異教ローマの支配下で生活していたゆえに、主イエスであれパウロであれそのような義務を免除されていたのかもしれないということになる。確かにすべての民族は、どんな時でもどんな国にあっても神が命じておられることに従うように拘束されているゆえに、もしセオノミストが論ずるようにモーセ律法の市民法が含まれているというなら、主イエスもパウロもローマの行政官にそれに対する義務を要求した筈ではないだろうか。ユダヤ人が自らの判断で死刑を執行することをローマ政府が許さなかった場面があったにもかかわらず、主イエスやパウロが試練を受けた際に、ローマ側にそれをほのめかすことくらいはできたのではないか。

 

<T>

 

 パウロが、近親相姦の教会員を除名せよ、と述べ、死刑にせよ、といわなかったのは、死刑制度が廃止されたからだ、というのは、明らかな誤謬である。


 パウロは、その他の個所において、明らかに死刑制度を認めている。
 すでに挙げたローマ13章において、市民的権威はむやみに「剣」を帯びていない、と述べている。「剣を帯びるthn macairas forein」という表現は、悪人を処刑する権威、そして、生と死を司る権威を象徴している(Thayer's G.E. Lex. of N.T)。それ以外に、剣にどのような象徴的意味があるのだろうか。

 

 「キリストの王国においては、司法的罰則が教会訓練、及び除名を伴う戒規に置き換えられている」というのが本当ならば、なぜここでパウロは死刑制度を肯定したのか?

 

 またパウロは、「もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません」(使徒25・11)と述べて、死刑制度に反対していない。

 

 パウロがコリントの近親相姦者について述べたのは、「教会戒規」についてなのだ。
 ここで、彼は、市民的権威については触れていない。
 ローマ13章においてパウロが、「死刑」の権威があると述べたのは、あくまでも「支配者」(ローマ133)についてである。

 

 使徒2511においてパウロが上訴したのは、ローマ帝国から派遣された州総督「フェスト」に対してである。

 

 パウロが、「除名せよ」と述べたのは、「コリント教会」に対してである。

 

 教会の権威と、市民的権威とを混同してはならない。

 

 再建主義は、誰一人、教会に「死刑」の権威が与えられていると述べていない。死刑の権威は、もっぱら市民的権威に与えられていると述べている。

 

 このような誤解は、ス長老教会が、「義のしもべ」としての国家と、「恵みのしもべ」の教会の働きを混同しているからである。カルヴァン派と称しながら、神の国における諸権威の役割について、このような基礎的な混同をしているのは、明らかにカルヴァンの伝統から外れているからである。

 

 このような混同があるのは、そもそも、ス長老教会が、「神の国」を制度的教会に限定するという現代の教会が陥っているアルミニアン的誤謬に染まっているからである。

 

 神が世界の創造者であるならば、「神の国」は全創造を含むものだ。カルヴァン派の伝統は、この点について一貫している。神の国を教会生活に限定したのは、アルミニウス主義である。

 

 パウロが、教会の権威に対して、姦淫者を処刑せよと言わなかった、ということを見て、すぐに「だから、神の国において司法的罰則は教会戒規に置き換えられた」と結論することがいかに的外れであるか、ス長老教会は悟るべきである。

 

 

<K>

 

セオノミストは、主イエスとパウロのこれらの態度は、当時の特別な政治的環境のなかで、厳格な態度がとれなかったことによるのだと主張している。もし、神の律法への包括的かつ詳細な服従が破棄されていないなら、異教ローマの支配下で生活していたゆえに、主イエスであれパウロであれそのような義務を免除されていたのかもしれないということになる。確かにすべての民族は、どんな時でもどんな国にあっても神が命じておられることに従うように拘束されているゆえに、もしセオノミストが論ずるようにモーセ律法の市民法が含まれているというなら、主イエスもパウロもローマの行政官にそれに対する義務を要求した筈ではないだろうか。

 

<T>

 

自分の直属の権威が、姦淫罪を死罪とみなしていないのであれば、それに対して「それは、おかしい。姦淫を犯した者を処刑せよ」と性急な改革を求めるならば、それは、間違いではないにしろ、無駄な試みである。

 

市民的権威そのものが神を権威として礼拝していないのであれば、その権威の法的枠組みの中において従順に生活をするのが、クリスチャンとしての務めである。もちろん、その法的枠組みが神への服従を妨害するならば、反抗することができる。例えば、クリスチャンに対して偶像を礼拝するように強制したり、宣教を禁じたりした場合には、クリスチャンにはその権威を定めた究極の権威である神に従うべきである。

 

しかし、もしクリスチャンが、その直属の支配者、権威、例えば、国家、会社の社長、学校などが、我々の信仰を妨害しようとしているのでもなく、我々に偶像礼拝を強制しているのでもなく、神の法に違反していない統治を行っているのであれば、その制度に神のゆえに従うべきである。もちろん、正しい道を示すことは大切であるが、性急な改革を求めることは賢い方法とはいえない。

 

「あなたたちは、神的世界観に忠実ではない。聖書はこのように教えている。あなたは、神の教えに従った運営を直ちにすべきである」ということが知恵のあることだろうか。

 

自分が所属する異教的な国家に対して、「聖書的政治制度に切り替えよ」と述べたり、自分の会社に対して、「聖書的ビジネスをただちに行え」と訴えたり、学校に対して、「神的カリキュラムに即座に切り替えよ」と言うことが、はたして神が望んでおられることなのだろうか。

 

我々は、革命者ではない。神はそのような性急な行動を嫌われる。

 

パウロは、「横暴な主人に神に対するように心から従え」と命じている。

 

イエスは、「1ミリオン行け、と命じられたら2ミリオン行け」とすら命じられる。

 

我々が、市民的権威を神の法に基づかせるには、長い時間がかかると考えなければならない。現在の日本のように、クリスチャンの数が1%にも満たない社会において、「司法制度を変えよ」と主張することは、「遠くの最終目標を示す」という意味においては、意味があるとしても、現実的にはほとんど意味がない。

 

再建主義者が、「司法制度そのものをも神の法に基づかせよ」と主張するのは、遠くに目を見据えているからである。宣教が進み、クリスチャンの数が国民のかなりのパーセンテージになり、国民の世論が、キリスト教的世界観を喜んで受け入れる段階になければ、聖書的司法制度を説いても、現実社会の変革という意味ではほとんど無駄である。

 

我々は、いつの日にか「すべての国民を弟子とせよ」とのキリストの命令は実現すると信じている。そして、その遠い目標に人々の目を向けさせている。山登りにおいても、目標の山頂を念頭に置かねば、その行程は定まらない。あらゆる計画には、小さな目標だけではなく、最終的な大きな目標がある。人間は、そのような大目標が必要なのだ。遠くにともる小さな灯台の火を示される必要がある。そういった意味において、我々は、現在の異教的世界において、「これが道だ」と示している。

 

パウロやイエスが、権威者に向かって直に「あなたはこうすべきだ」といわなかったからと言って、彼らがその指針を捨てていたということにはならない。そのような性急な言葉は、聖書の品位を落とす言葉である。

 

すでに述べたように、パウロもイエスも、「律法は一点一画たりとも廃棄されない」と主張することによって、このような直接的な性急な訴えに代えている。

 

クリスチャンが世界を変える方法は、性急な革命ではない。伝道と教育による、漸進的な改革である。クリスチャンの数を増やし、彼らにキリスト教的世界観を教え、それが国民の常識になるまで、愛と訓戒によって、忍耐強く説きつづけることである。

 

これ以外に世界を変える方法はない。

 

<K>

 

第一ペテロ2:13−14 この箇所では、人の立てたすべての権威に従うように命じられている。この箇所は、創世記49:10と共に信仰告白の中でも引証聖句の一つとされている。ユダの末裔にあらわれる王権として主イエスがこられるのであり、現存の政治権力は、それに従うことが要求されている。
この解釈は、エペソ2:11-17においても認められる。キリスト初臨の前には、異邦人がイスラエルの市民権からは除外されていた。(v12)これは、特権と同時にすべての義務を伴う神聖イスラエル国家の一部ではなかったという意味ではない。異邦人を疎外していたのは十戒と諸規定ではなく、敵意で仕切られた壁だった。特に、律法がイスラエルと他民族を分けるものであったという視点がここにみられる。これは、国家としての区別が、道徳律にあったことを意味しない。すべての国民は心に律法が刻まれている。(ローマ2:14-15)これは、イスラエルが、市民的祭儀的律法によって支配された神聖国家であった事実を意味している。割礼、食べものの戒律、結婚のおきて、儀式律法、司法的律法のどれもが他民族をイスラエルの市民生活において排除していた。かくのごとき律法を、地上におけるキリストは廃棄された。彼はその業を十字架の死にあって実行され、ユダヤ民族と異邦人が和解した。廃棄されたと訳される言葉は、不能にする、力を除く、もしくは失効という意味である。

 

 

<T>

 分かりにくい書き方をしているが、つまり、イスラエルの市民生活を規定する諸律法(食物規定、司法律法、儀式律法など)は「敵意」であり、イスラエルと異邦人を対立させる「隔ての壁」であった。異邦人にも「心に書かれた律法」がある以上、道徳律法は「隔ての壁」「敵意」ではない。キリストは、イスラエルの市民生活を規定する諸律法を廃棄されたので、両者の区別は取り去られ、和解が実現した。道徳律法は「敵意」ではないのだから、それは今でも有効である、ということだろう。

 

 たしかに、旧約聖書の経綸は「民族的」であり、新約聖書の経綸は「超民族的」である。

 それゆえ、イスラエルに固有の民族的規定をそのまま行わなければならないということはないだろう。例えば、農業に関する規定を、工業化・情報化社会に生きている人々がそのまま実行する必要はないだろう。

 

 そういった意味において、旧約聖書の諸律法は、イスラエルと異邦人を隔てる「壁」だった。今や、全世界の国民、民族が弟子とならなければならない時代(マタイ2819-20)において、このような壁は不要である。

 

 民族的規定は、神の国の普遍化・世界化には障害である。文字通りそれらを守れと言われるならば、キリスト教は世界宗教にはならなかっただろう。異邦人はユダヤ化される必要はない。

 

 そこで、教会は、この普遍化の方法について、模索してきた。ユダヤに与えられた律法をどのように考えるべきか、ということで頭を悩ましてきた。それをそのまま捨ててしまってもよいのか、それとも、そのまま実行すべきなのか。それとも、旧約律法にも何らかの意味があると考えなければならないのか。

 

 歴史的にみて、異邦人の教会は、旧約律法を過去のものとして切り捨てる傾向が強かった。カルヴァンですら、それに対してあいまいな態度を捨てきれなかった。綱要の中において「統治に関して(必ずしも聖書に由来しない)普通法でもよい」といいながら、申命記の注解においては、「旧約律法を実生活に適用せよ」と言った。ウェストミンスター信仰告白において、改革主義者たちは「司法律法は廃棄された」と述べた。

 

 しかし、ヴァン・ティルが登場して、「中立の幻想」が唱えられた。つまり、「この世の中において、神的でも、サタン的でもないものなど存在しない。あらゆるものについて人間は、聖書の意見に従うべきである」(前提主義)と言われた。ヴァン・ティルの登場によって、神学の根本的な再構築が迫られた。ウェストミンスター信仰告白のように、「司法律法は廃棄された」というならば、では、司法に関するクリスチャンの見解はいかなるものであるべきか、と問われた。もしヴァン・ティルが言うように、「聖書はあらゆることについて述べている」というのが正しいならば、司法について、我々は聖書から何を学ぶべきか、と。

 

 セオノミスト(ラッシュドゥーニーやグレッグ・バーンセンら)は、司法について律法から学ぶべきだと説いた。それに対して、ス長老教会など反セオノミストは、「司法律法は廃棄されたのだから、そこから学べない」と説く。

 

 これが今回の争点である。

 

 セオノミストは、司法について明確な案を提供しているのであるから、ス長老教会は、ただ批判するだけではなく、代替案を出すべきである。聖書律法ではなければ、一体何が司法についての基準なのか、を明白に提案すべきである。

 

 しかし、反セオノミストは、これを提示できない。なぜならば、彼らがそれを行えば、明らかに前提主義に違反するからである。

 

 「いやいや、我々は聖書の意見に従わないといっているのではない。司法について聖書全体から学ぼうとしているのである」というかもしれないが、神が司法について聖書律法に明確に示している教えを否定するのであるから、そこに真空・中立の領域ができるのは当然である。旧約聖書について、生活の様々な領域について細かい規定があったとすれば、それを検討して、その民族的規定の中から「普遍的規則」を読み取るべきであると、セオノミストが主張するのに対して、彼らは、「司法律法などは廃棄されたのであるから、その検討は不要である」という。

 

もし「我々は、真空を生み出していない」、「セオノミーによらず、『聖書全体から学』び、キリスト教的司法制度について考えてきた」というならば、それは、ノンクリスチャンの考えよりもすぐれた神中心の司法制度を作ることができたはずである。はたしてそうなのだろうか。世界の現状を見て欲しい。クリスチャンは、けっしてこのようなものを作り出してこなかった。むしろ、教会と世俗を分離して、世俗の分野には関わる必要はない、とひたすら「逃げ」の姿勢を取ってきたのではないか?これが、すぐれた成果であったとでも言うのだろうか。

 

 彼らの代替案は、概して、世俗政治学、世俗法学、世俗文化人類学、世俗社会学などに基づくものだ。ノンクリスチャンが神を前提とせずに作り上げた学問をまるごと受け入れてしまうのがオチである。もしそうでなければ、クリスチャン子弟に進化論や反キリスト教的心理学など、無神論的学問を教えることを拒否したはずである。しかし、現実はそうではなかった、彼らは真空を作り出し、その真空にヒューマニズムが入ることを許した。そして、そのヒューマニズムによって子弟を教育し、次世代を喪失してきた。

 

 我々は、スキを作ってはならない。スキを作れば、そこにサタンが巣を作る。我々は、あらゆる領域、分野について、ヒューマニズムや異教主義の入る隙間のない考えを聖書から作り出さねばならない。ダムに一つの小さな穴を作ると、そこから水が漏れ出して、それは大きな穴に発展する。そして、全体が決壊してしまう。それと同じことが、現在起こっている。キリスト教が世界観としての力を失い、世界歴史の指導原理としての地位を失ったのは、クリスチャンが異教主義が混入した意見を受け入れたからである。半キリスト教半ヒューマニズムの考え方に陥ったために、クリスチャンは勉強して学問を学べば学ぶほど不信仰になり、次世代を失っていった。

 

 セオノミストは、「民族的律法」を隔ての壁として拒否する。繰り返すが、マタイ28章の「大宣教命令」が、「すべての国民」を弟子とせよ、とある以上、もはや民族という壁は取り去られている。それゆえ、イスラエルを「聖い民」とし、異邦人を「聖くない民」として区別することはもはやできない。また、その区別を具体化する諸律法も廃棄されている。「異民族との結婚を禁じる教え」や「食物の規定」「祝祭日規定」など、「民族的・地域的・時代的にイスラエルと異邦人を区別するための特殊規定」は廃棄されている。

 

しかし、これらの規定が、新約時代において真空領域(つまり、神の規定の及ばない領域、そこにヒューマニズムなど人間の考えが入り込んでもよいとする領域)を作り出すという意味で「廃棄された」と考えることはできない。「一点一画たりとも廃棄されない」という御言葉ゆえに、これらの民族的規定が「消滅・無効力化してしまった」と解釈することはできない。

 

新約時代のクリスチャンは、その規定の本質を読み取って、それを「超民族的経綸にふさわしい規定」に普遍化しなければならない。我々は、農業に関する規定をそのまま守る必要はないが、それを農業民族以外にも通用する普遍的規定として読み取らねばならない。

 

パウロが、「穀物をこなしている牛にくつこをかけてはならない」という規定を超民族的規定に普遍化して、「働き人が報酬を受け取るのは当然である」と解釈したように。

 

ス長老教会のように「司法律法は廃棄された」と述べるならば、新約時代において「クリスチャンは司法的分野に関わる必要はない」と「司法領域」について真空を作り出すことになる。それゆえ、我々は、司法律法については、新約時代の経綸にふさわしく、「超民族的に解釈しよう」と述べる。

 

 

まとめ:

 

イスラエルと異邦人の隔ての壁は取り去られた。そして、その隔てを可能にした「民族的律法」も廃棄された。しかし、それは、「真空」を作るという意味において廃棄されたのではない。すべての律法は永遠に効力をもつ以上、それらを跡形もなく捨て去ってしまうことはできない。本質を読み取り、それをすべての民族、国民の弟子化に役立つ形に普遍化しなければならない。

 

おまけ:

 

改革主義の中に入った異端的考えは、旧約と新約の経綸の区別を「物質的」と「霊的」としたところにある。これは、ギリシャの霊肉二元論の影響である。西洋キリスト教に通底してきたこの二元論的思考からの完全な脱却が、今日求められている。ス長老教会の「司法律法の廃棄」の主張は、この霊肉二元論の思考が根底にある。霊肉二元論が正しいとすれば、旧約時代に存在した「物質的」規定が、新約時代には消滅したと考えることができるからである。

しかし、旧約時代と新約時代の区別は、「霊的」と「物質的」の区別ではない。それゆえ、旧約時代に存在した規定が、新約時代に消滅することはありえない。

旧約時代と新約時代の区別は、「民族的」と「超民族的」の区別である。イスラエル民族に通用した掟は、異邦人に適用できるように、普遍化されなければならない。

キーワードは、「廃棄」ではなく「普遍化」である。

律法の一点一画たりとも廃棄されず、その小さな掟でも守らなくてよいと教える者は、御国において最も小さい者と呼ばれるならば、我々は、「廃棄」されたと言ってはならない。廃棄されたのではなく、「普遍化された」と言うべきである。

 

 

 

<K>

 

ガラテヤ5:3「割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法全体をおこなう義務があります。」使徒パウロ手紙であるガラテヤ書は、聖書の中でセオノミーに対する完全な論駁書の一つである。もちろん、パウロが儀式律法についてのみ言っているのであり、我々は儀式律法を守ることによるのではなく信仰によって義と認められるという見解は、セオノミストの著作者たちによって否定される。それにもかかわらず、ガラテヤ3:10について述べるとき、コンテキストにおいては、律法全体つまりシナイで与えられた律法全体を意味しているのは明かである。律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみなのろわれるそして、ガラテヤ4:24“このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイから出ており、奴隷となる子を産みます、その名はハガルです。割礼は、イスラエルにとって神の契約を守らなければならないという入会のための印であり、この契約には明らかに司法的律法が含まれていた。(出エジプト21&22章)割礼がもはや必要がないという事実は、シナイ契約履行義務がないということである。キリストは、我らのためののろいを受けられることによって、律法ののろいから我々を贖われたのだ。(ガラテヤ3:1)興味深いことに、律法の書(ガラテヤ3:10)という表現は、申命記においては、申命記それ自体をさして用いられているのであり、当然のことながら儀式律法と同じく市民規定も含まれる。これが、割礼規定を義務づけたすべての律法なのであり、キリスト者はそれらのものから自由なのだ。

 

 

<T>

 

「ガラテヤ5:3「割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法全体をおこなう義務があります。」使徒パウロ手紙であるガラテヤ書は、聖書の中でセオノミーに対する完全な論駁書の一つである。もちろん、パウロが儀式律法についてのみ言っているのであり、我々は儀式律法を守ることによるのではなく信仰によって義と認められるという見解は、セオノミストの著作者たちによって否定される。」

 

 

 「おいおい…」。

 あきれて二の句が継げられない。

 

 どこで、セオノミストが「我々は儀式律法を守ることによるのではなく信仰によって義と認められるという見解」を「否定」したのだろう。

 

 それを具体的な言葉を引用して、説明してもらいたいものだ。

 セオノミストが「信仰のみによる救い」を否定し、「行いによる救い」を、誰が、いつ、どこで、どのような書物や講義や、説教で否定したか、具体例を挙げて説明していただきたいものだ。グレッグ・バーンセンがどこでこんなことを述べたか?RJ・ラッシュドゥーニーが、どの書物で信仰義認を否定したか?ゲイリー・ノースが、どの著作で行為義認を肯定したか?ゲイリー・デマーが、どの講義でそんなこと言ったのか?

 

 クリスチャンは、嘘をついちゃいけない。

 

 カルヴァンやノックスの弟子が、このような中傷、デタラメ、嘘、偽りのオンパレードをやっていいのだろうか。これでは、『ホロコーストへの道』で「人間は行いによって義と認められる。この行いはイエス・キリストが成し遂げてくださった。」という文の前文だけを引用して、「ラッシュドゥーニーは行為による義認を説いた」と述べたあの偽預言者ハル・リンゼイと同レベルではないか?ス長老教会に、クリスチャン的良心はあるのか?ス長老教会は、『恥』という言葉を知っているか?ス長老教会は、『偽証者へ下る神の裁き』を知っているか?

 

 ス長老教会は、セオノミストの主要著書『聖書律法綱要』を読んだことがあるか?『聖書律法綱要』で、ラッシュドゥーニーは、次のように述べたのを知っているか?

 

 「イエス・キリストによる救いは、救いが神の恵みの御業によることを示している。神の恵みの御業による救い<のみ>が、全聖書が提示している救いの教理である。(our salvation in Jesus Christ sets forth the salvation by God’s gracious act which is <the only> doctrine of salvation all Scripture sets forth.)」(R. J. Rushdoony, Institutes of Biblical Law, P&R, 1973, p.304.)[本文での強調はイタリック体による]

 

 こんな一つの引用で反論できるようなことを教派の「決議」に載せちゃあダメだ。まるで「私は無知か、怠惰か、そうでなければ、嘘つきです」と公言しているようなものではないか。

 

 まったく、この一箇所だけとっても、この「決議」を出したス長老教会が、いかに低レベルかわかるというものだ。

 

 このようにボロクソに罵倒されたくないならば、きちんと文献を調べて、ちゃんとしたものを出したらどうだ。もし文献を調べたというならば、もっと、批判する相手の言っていることをクリアに理解するために、自分の目の曇りを取るべきだ。

 

 

「割礼は、イスラエルにとって神の契約を守らなければならないという入会のための印であり、この契約には明らかに司法的律法が含まれていた。(出エジプト21&22章)割礼がもはや必要がないという事実は、シナイ契約履行義務がないということである。」

 

 

 これは、まるでディスペンセーショナリズムではないか。契約を不連続と捉え、シナイ契約とキリスト契約とを分離し、シナイ契約は履行義務がないとするのは、「昔、神はシナイにおいて行いの契約を与えたが、民がそれを実行することに失敗したために、神はそれとはまったく別の恵みの契約を民に与え、服従をテストした」というのと同じではないか。

 

 カルヴァン派の契約神学は、シナイ契約とキリスト契約は連続しており、シナイ契約が発展してキリスト契約となった、とするのではないか?

 

 O・P・ロバートソンは、次のように述べている。

 

「贖いの契約[訳注:つまり、人間を贖うための恵みの契約のこと]に含まれる様々な契約の間には、相互に有機的関係がある。…後続の契約はすべて、前の契約の拡大版である。」(O.P. Robertson, The Christ of the Covenants, P&R, 1980, p.63.

 

 契約入会の儀式としての割礼は、発展してバプテスマに代わったとするのではないか?

 

 割礼が不要になったのは、新たにバプテスマという儀式に置き換えられたからではないか?

 

 「割礼は新約時代において消滅し、契約の儀式は不要になり、そこに真空が生まれた」ということではないはずだ。契約は、拡大したのであって、縮小したのではない。前の契約と後の契約は断絶しているのではなく、キリストによる成就と、その後、神の民の贖いの完成に向けて高度化したのではないか?

 

 契約の有機的相互関係を否定し、そこに断絶があったとしてとらえるのは、ディスペンセーショナリズムである。それゆえ、ディスペンセーショナリズムは、以前の契約において施行されていた諸規定は廃止され、消滅したと考えることが、「論理的に」許される。

 

 しかし、契約の連続性、発展性を唱える契約神学者が、「以前の契約には存在した規定が、以後の契約において消滅した」と言うことは「論理的に」許されない。

 

 ス長老教会は、契約神学を否定するのか?

 

 カルヴァン派の伝統を否定するのか?

 

 

<K>

 

ゲルハルドス・ボス(Biblical Theology p387)は次のような一般原則を提示した。神が啓示を通じて律法をお与えになったゆえに律法は効力をもって永久に残される。ただし、神聖政治において、生活おける規律制定に対して一体誰が権威を行使したのかという一つの疑問があるのであり、ここでは単に主イエスのメシアとしての権威がそれにあたるとみなされる

 

<T>

訳文がわかりにくいので、ゲルハルダス・ヴォスのBiblical Theology 387ページを見たのだが、どこにもこのような一節を見つけることができなかった。そこで、「決議」の原文にあるこの引用文を富井が次のように訳してみた。

 

 

(原文)

Geerhardus Vos (Biblical Theology, p.387) puts the general principle as follows: "it did not follow, that because God had through revelation given a law, it therefore had to remain in force in perpetuum. The only question was who had the proper authority in this matter of regulating the mode of life in the theocracy, and plainly here the Messianic authority of Jesus Himself was taken by Him into consideration."

 

(訳文)

ゲルハルダス・ヴォス(Biblical Theology, p.387)は、次のような一般原則を述べている。「『神が啓示を通してお与えになった以上、その法には永遠の効力がある』という結論には至らなかった。唯一の問題は、『神政政治において、誰が生活のあり方を決める正当な権威者か』ということである。そして、ここで、イエスは、明らかに、ご自身のメシア的権威を考慮された。」

 

 

どうりで分かりにくかったわけである。吉井氏の文では、it did not follow that 〜(「〜ということにならなかった」、「〜という結論は導き出されなかった」)が訳出されていない。

 

ス長老教会の「決議」原文のいい加減さといい、誤訳オンパレードといい、コンナモノを、よく神と人の前に「公的宣言」として出せるなあ、という印象だ。

 

人の立場を貶める危険性があるのだから、もっと、自分が公表するものには責任を持ってくれよ、と言いたい。

 

 

この引用が実際にゲルハルダス・ヴォスの言葉である、と仮定して話を進めよう。ここで、ヴォスは、「イエスはメシアとして、人々の生活を支配する正当な権威をもっているのだから、神の法の効力を停止することもできる」と述べている。

 

しかし、また繰り返しになるが、この主張は、「神の法から永遠の効力を奪うことはできない」としたイエスの御言葉(マタイ5・17)と完全に矛盾する。

 

イエスは、律法の完全成就のために我々のもとに下ってこられた。そうしなければ、律法の要求が満たされず、神は被造物を許すことができなくなってしまう。律法は一点一画たりとも廃れず、すべて成就されねばならない。律法の一つでも破られれば、それは、神にとってすべてが破られたのと同じ意味を持つ。神は絶対者であり、一点の暗い部分もなく、回転の影すらないお方なのであるから、自らが創造された世界に一点のしみも傷も現れることを許されない。仮に現れた場合、神はその罪を裁かずにはおれない。もしその罪を裁かずにおくならば、神の完全性、絶対性が崩れる。人間の目から見れば、わずかな罪であっても、完全者であり、絶対者である神にとっては重罪である。神にとって選択は常に「オール・オア・ナッシング」である。

 

神は、キリストに律法を完全に守らせ、キリストに人間の責任を完全に果たさせ、永遠の祝福を受けるに値する状態に至らしめられた。そうでなければ、いくら我々が、信仰とバプテスマと聖餐によってキリストについたとしても、我々はキリストと同様に、神の法体系の非成就者とはみなされ、「欠けのある者」として裁かれ滅びる以外にはない。

 

もしキリストが、神が定めた規則をわずかでも廃棄するならば、神としてのキリストに傷は残らないが、人間としてのキリストは、契約違反者になり、神から永遠の報酬を受けることも、無罪を獲得することもできない。

 

ス長老教会やゲルハルダス・ヴォスは、キリストの二性、つまり、神性と人性について混同している。

 

神としてのキリストは、法授与者として、法を変更する権威がある。だから、ある法を廃棄し、ある法に変更を加えるという権威がある。

 

しかし、人間としてのキリストは、神が与えられた法を「人間として、人間の身代わりに」完全に成就する責任がある。そうしなければ、罪人を贖うことは不可能である。神がお定めになった法体系を完全に実現するためには、法の部分的廃棄や部分的不履行は絶対に許されない。

 

人性をとって来臨されたキリストの目的は、人間の贖いをすることにある。もしこの目的がなければ、キリストは神として天にとどまっておられたであろう。受肉の事実は、「神は、アダムができなかった務めを身代わりに果たさせるためキリストを送られた」ということを示しているのであり、それゆえ、キリストは、あくまでも「しもべ」としての立場を基本として考えておられたということである。

 

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ26-8

 

旧い契約から新しい契約に移行する際に、神の律法の一部が廃棄され、消滅し、そこに真空ができたと考えることは絶対にできない。旧い契約から新しい契約への移行は、発展であり、充実であり、拡大である。縮小、退化、後退ではない。旧約律法におけるあらゆる要素は、新約時代において発展・充実・拡大されたと考えなければならない。

 

一般に、「霊的な経綸」という言葉によって、新しい契約を旧い契約に比べてなにか高度なものと誤解している人が多いのであるが、「霊は高くて肉は卑しい」という発想は、ギリシャ霊肉二元論から来ている。聖書は、けっして肉を軽視していない。だから、旧約聖書における体罰、死刑、市民的律法、ダンス、祭り、食物、衛生規定などを、「肉体的・物質的」であるがゆえに、幼稚と判断してはならない。これらは、ユダヤ民族をモデルケースとして、あらゆる民族に適用される神の法的支配を実物で教育するために与えられたものだ。「肉体的・物質的」だから「幼い」のではなく、「非普遍的・民族特化的」であるから「幼稚な教え」と判断されるのである(ガラテヤ41-12)。

 

キリスト教界が、このような誤解から早く解放されることを祈る。

 

 

<K>

 

キリストは、我らのためののろいを受けられることによって、律法ののろいから我々を贖われたのだ。(ガラテヤ3:1)興味深いことに、律法の書(ガラテヤ3:10)という表現は、申命記においては、申命記それ自体をさして用いられているのであり、当然のことながら儀式律法と同じく市民規定も含まれる。これが、割礼規定を義務づけたすべての律法なのであり、キリスト者はそれらのものから自由なのだ。

 

 

<T>

 

 これはとんでもない意見である。

 

 訳文が正しいならば、ス長老教会は、ここにおいて、クリスチャンは、すべての律法 つまり、申命記全体の掟から自由だと述べている。

 

 「市民的・司法的律法」に対してクリスチャンには遵守責任がないというならば、まだ分かる。しかし、道徳律法をも含む申命記全体を守る必要はない、と述べている。

 

 これは、ス長老教会が、完全に異端の教えに はまっていることを表している。

 

 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記65)という戒めすらもクリスチャンは守る必要がない、と宣言するような教派を異端であると決め付けないわけにはいかない。

 

 「市民的・司法的律法」を守る必要はないと言い出すと、必然的にすべての律法を守る必要はないと結論せざるをえなくなってしまうことを、ス長老教会は、はからずも見事に例証してくれている。限定的な律法無用論者は、無限定的な律法無用論者にいずれ様変わりするということを、我々はス長老教会の発言から学ぶことができる。

 

 ガラテヤにおいて、パウロは、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」と言っている。 たしかに、生まれながらの人間は罪を犯し、律法を完全に守ることはできないので、誰でもみな、のろわれる。そのようなのろいを受けることがないように、キリストがすべての律法を守ってくださり、契約によってキリストにつながる人間は、みな、律法を完全に守った者とみなされる。そして、我々の犯した罪は、すべてキリストの犠牲により、赦される。

 

 このようにして、もはや律法は、我々に対して告発者ではなくなった。我々は、キリストにあって、すべての責任を果たしたからである。我々は、律法の「のろい」に対して自由である。

 

 しかし、パウロは、他の個所において、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ331)と述べており、律法そのものが無効になったのではない、とはっきりと述べている。我々は、「のろい」としての律法は無効になったが、「指導者」としての律法は有効であることがここから分かる。

 

 だが、ス長老教会は、「指導者」としての律法すらも無効になり、クリスチャンはそれらから自由だと述べている。改革神学に通じている読者はお分かりだろうが、これは、「律法の第3効用」の否定である。カルヴァン派の伝統の中において、このような「指導者としての律法をも拒否する教え」は存在しない。

 

 ス長老教会は、明らかにアルミニアン化した。

 

 ガラテヤ3章の「律法の書」が、申命記であり、クリスチャンは、律法の書から解放されたというス長老教会の発言が事実ならば、我々は、申命記全書を無効の書物として退けなければならない、ということになる。

 

 もしそうならば、イエスが申命記の言葉を使ってサタンの誘惑に対抗したのはいったい何だったのか?

 

「…人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる…」(申命記83

 

という申命記の言葉を武器とされたのはいったい何だったのか?

 

 

被造物は、創造者の法から自由になど絶対になれない。

 

法の刑罰から自由になれるとしても、法そのものから自由になることは絶対にない。

 

創造者がこの宇宙における主権を捨てない限り、絶対に被造物が法から自由になることはない。

 

法から自由だと主張する者は、この宇宙において、もう一人の主権者であり、神のライバルである。つまり、その人間は、サタンと同じ立場にいる。サタンは、神の法の下にいることを嫌って独立した。

 

もし、神が、宇宙の中において、もう一人の主権者として自分勝手にやっている者を野放しにし、裁く意志を示しておられないとすれば、神はこの宇宙を統治する意志がないということになる。日本政府は、日本の領土内において、「日本の法律の下にはいない」と主張する者を許すだろうか。

 

神はサタンを野放しにはしておられない。サタンは鎖でつながれている。つまり、神はサタンの主権者なのだ。キリストが十字架にかかられた時に、サタンは捕虜として凱旋の行列に加えられた。

 

この宇宙の中において、「私は、もはや神の法に縛られない」と主張する者は、いくらクリスチャンを自称していても、神のライバルであり、滅ぼされる運命にある。

 

神の法からの自由を宣言する宗教は、キリスト教ではなく、それは、明らかに異端であり、サタン教である。

 

 

<K>

 

(4)セオノミスト著作家の福音と律法への態度が、プロテスタント正統主義に従って、律法の行いによらず、神の恩恵にある信仰による救いを強調することに腐心しているように伺われるとはいえ、この学徒の立場は、バランスを欠いた律法への強調点をもつゆえに、恵みの福音の確かさを損なう傾向をもつ。彼らはキリストの初臨がもたらされた根本的な変革がどれほどの重大事だったかを受け止めるのに失敗している。セオノミストは、新約聖書が律法と恩恵の間においている対比を過小評価している。
 ヨハネ1:17「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」 ローマ6:14「罪はあなたがたを支配することはないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」ローマ7:6「しかし、今私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって、仕えているのです。」ローマ13:10「愛は隣人に害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」第二コリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える資格を下さいました、文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」ガラテヤ3:25「しかし、信仰があらわれた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」
 セオノミーには、すべての試金石に、キリストの愛の福音ではなく旧約律法を据えるという「新しい律法主義」に誘う大きな危険性がみられる。

 

<T>

 

 「セオノミスト著作家の福音と律法への態度が、プロテスタント正統主義に従って、律法の行いによらず、神の恩恵にある信仰による救いを強調することに腐心しているように伺われるとはいえ、この学徒の立場は、バランスを欠いた律法への強調点をもつゆえに、恵みの福音の確かさを損なう傾向をもつ。彼らはキリストの初臨がもたらされた根本的な変革がどれほどの重大事だったかを受け止めるのに失敗している。セオノミストは、新約聖書が律法と恩恵の間においている対比を過小評価している。」

 

 

 ス長老教会は、ここでも、「指導者としての律法」と「呪いとしての律法」を混同している。

 ス長老教会は、第二コリント3・6の「文字は殺し、御霊は生かす」という言葉を、「呪いとしての律法」だけではなく、「指導者としての律法」へも適用している。

 

 しかし、パウロが、「殺す」ものであり「古い文字」であり「養育係」であるとしたのは、「呪いとしての律法」だけである。「指導者としての律法」をもこのようなものであるとは述べていない。

 

 なぜならば、すでに述べたように、パウロは、ローマ3・31において、はっきりと「信仰は律法を『絶対に』無効にしない。むしろ、それを『確立する』」と述べているからである。

 

 さらに、彼は、「心では神の律法に仕え」(725)、「内なる人としては、神の律法を喜んでいる」(722)と述べている。

 

 もし、完全に(つまり、「呪いとしての律法」だけではなく、「指導者としての律法」という意味でも)「律法の下にはなく」、「律法に対して死ん」でおり、「古い文字にはよら」ないのであれば、どうして今もなお「心では神の律法に仕え」「神の律法を喜んでいる」と言うことができるだろうか。

 

 もし、クリスチャンが律法から完全に(つまり、「呪いとしての律法」だけではなく、「指導者としての律法」からも)自由になり、恵みによってのみ生活し、生活の規範としての律法を無視できるのであれば、どうして、「心では神の律法に仕え」「神の律法を喜んでいる」などと自らの立場を告白するだろうか。

 

 さらに、パウロは、御霊によって歩むことは、「律法の要求が全うされるため」(84)である、と述べている。

 

 つまり、「霊的な生活とは、けっして律法抜きに成立するものではない」と断言している。御霊に導かれるのは、今日クリスチャンが誤解しているように、「律法を越えたさらに高いレベルの目標を目指すため」ではない。御霊の目標は「律法を全うする」ことにある。あくまでも、律法は、クリスチャンの行動基準、目標としての地位を失っていない。

 

 しかし、ス長老教会は、

 

 「しかし、今私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって、仕えているのです。」

 

 という御言葉を誤って解釈し、クリスチャンは、「指導者としての律法」「目標としての律法」に対しても死に、それから解放され、恵みと霊による生活に移行したと述べる。

 

 しかし、パウロは、様々な個所において、律法を引用し、クリスチャンの行動の基準、目標として我々に提示している。

 

1.

 

「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(ローマ138-10

 

 ここにおいて、十戒は、クリスチャンの目標として掲げられている。

 

 パウロは、「互いに愛し合いなさい。愛することによって、十戒を成就できるから」と述べている。

 

2.

 

「いったい自分の費用で兵士になる者がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない者がいるでしょうか。私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」(第1コリント97-14

 

 ここで、パウロは、はっきりと、律法をクリスチャンの行動基準として引用している。

 

3.

 

「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。律法にこう書いてあります。『「わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。」と主は言われる。』」

 

 ここでも、パウロは、律法を基準として引用している。もし、パウロが「律法は文字であり、それは人を殺すものであり、それからクリスチャンは解放されたのだから、もはや従う必要はない」と考えているとしたら、このような引用の仕方をするはずはない。

 

 

4.

 

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(ガラテヤ513-15

 

 クリスチャンが、肉によらずに御霊によって歩み、互いに愛し合うことを勧める中で、律法が行動基準、目標として掲げられている。

 

 

賢明な読者は、以上でお分かりだろう。

 

 パウロは、けっして「指導者としての律法」「目標としての律法」を廃棄していない。むしろ、クリスチャンに「律法を基準として歩め」と積極的に勧めている。

 

 セオノミストは、このような律法をクリスチャンに勧めている。

 これが、「バランスを欠いた」立場だろうか?

 これが、「律法と恩恵の間においている対比を過小評価している」立場だろうか?

 

 恩恵による歩みとは、律法を無視したり、それを廃棄されたものとして歩む歩み方ではない。

 聖書が教える「恩恵による歩み」とは、「呪いとしての律法」と「行為義認」の原理から解放された者が、神の基準としての律法を与えられて、御霊に導かれて、「律法の要求を全うすることを目標として歩む」歩みなのだ。

 

 「恩恵」と「律法」を単純対比することは絶対にできない。

 

 「指導者としての律法」と「呪いとしての律法」とを混同することによって、ス長老教会は、正統的教会が堅持してきた、「律法の第三効用」すらも否定してしまった。

 

 「司法律法」を否定することにより、ス長老教会は図らずも、律法の全的否定にまで至ってしまった。

 

 これこそが、今日のキリスト教界全般が陥っている混乱である。

 

 多くの教師が、この点において頭の整理がついていないために、律法を全否定している。我々は、このような混乱から解放されねばならない。

 

 

おまけ:

 

 パウロが否定したのは、あくまでも当時のパリサイ的「行為義認の手段としての律法」なのだ。

 旧約聖書が本来意図していたところの「恵みの契約の中において、御民の行動規範として与えられた律法」すらも否定することは、パウロの意図ではまったくない。

 

 当時、パウロの周りに異端としてはびこっていたパリサイ的宗教は、旧約聖書の宗教を、「行為義認」と解釈していた。

 

 しかし、行為義認の時代は、アダムにおいて終わった。

 

 創造された当初のアダムは、神の前に完全に戒めを守ることによって永遠の命を獲得することを期待されていた。

 しかし、彼は、そのテストに失敗してしまったために、そこで、テストは終了した。

 

 自動車教習所の検定で、途中で減点が基準をオーバーしてしまったため、試験中止を宣言されたようなものだ。それ以上、どんなに頑張っても、「もう試験は終わったから帰りなさい」といわれるだけである。

 

 パリサイ的宗教は、試験官の制止を振り切ってなおも運転を続け、「合格しよう」と必死になっている人に似ている。

 

 パウロは、このような努力は無駄だと宣言した。

 

 「もはや行いによっては義とされることはない」と述べた。

 

 「行為義認の手段として律法はもはや行為者を呪うものでしかない」と宣言した。

 

神は失敗者アダムに対して、動物の毛皮で衣服を作られた。これは、「犠牲による救い」を暗示している(創世記321)。

 

 ここにおいて、神は新たな道を提示されたのだ。

 

 人間が永遠の命に到達する方法は、「自分の行い」によるのではなく、「他者の犠牲」による、と方針を変更された。

 

 それ以降、すべての契約は、「恵みの契約」であり、「行為の契約」ではない。

 

 モーセ契約にしても同じである。そして、律法は、「恵みの契約」の一部として与えられた。

 

 パウロは、律法の本来の意味を明らかにしただけなのだ。

 

 つまり、律法とは、行為によって義とされるためのツールではなく、恵みにより、イエス・キリストの贖いによって義とされた者が、神の御前に御民としてふさわしい歩みをするためのツールだと宣言した。

 

 

<K>

セオノミーには、すべての試金石に、キリストの愛の福音ではなく旧約律法を据えるという「新しい律法主義」に誘う大きな危険性がみられる。

 

<T>

 

 ここには、従来の福音派によく見られる「律法」と「福音」、または、「律法」と「愛」を対立概念としてとらえるという致命的な誤解が見られる。

 聖書は、決して「律法」と「福音」、または、「律法」と「愛」を対立概念としていない。

 

 パウロが、あたかも「律法」と「福音」や「律法」と「愛」を対立しているかのように書いているのは、繰り返して述べてきたように、当時のユダヤ教が「律法」を行為によって救いを得るためのツールと考えていたからである。

 

 ユダヤ人は、行為を積み重ねることによって、義を獲得できると考えていた。

 律法を守ることによる義を追い求めていた。

 

 しかし、このような考え方(律法主義)は、旧約聖書の教えではない。

 旧約聖書の教えは、あくまでも、「信仰と贖いによる救い」である。

 そもそもユダヤ民族の祖アブラハムは信仰によって義と認められた。

モーセの律法は、「贖いの血」によって値なしに救われた民に与えられた。

 

十戒の第一の宣言は、「わたしはあなたがたを奴隷の家から救い出したヤーウェである」である。

 

まず「信仰による義」があって、その後に「律法」が追加された。

 

律法は、人々に罪を自覚させるためであり、神の御前における自分の本当の姿を知らしめるためである。

 

 人は、神の基準を示されない限り、本当に自分の姿を知らない。ノンクリスチャンが、罪を自覚していないのは、人間的な基準しか見ていないからである。神の基準を見れば、自分がいかに悲惨で救われがたい人間であるかがわかるはずである。人間は、自分が溺れていることすら気づかないほどに盲目である。それゆえ、まず、「おまえは今溺れているのだよ」と教える者が必要である。律法の第一の務めは、このように警告を与えることにあった。

 

 そして、律法は、人々にメシアを待望させる。罪を自覚した人々は、当然、神の怒りから逃れる術を求めるようになる。

 人々は、贖いの動物において、将来、真の贖いを成し遂げるメシアが来られることを見た。

 イエスが誕生された時、世界中で、自分の罪を贖うメシアへの期待が高まっていた。

 東方の博士(異邦人)が、メシアの誕生のためにわざわざユダヤを訪問したことからも分かる。

 

 このように、律法の務めとは、人々の目をキリストに向けさせることにあった。

 

 キリストが十字架にかかられた時に、人々は、真の贖いが成就したことを悟った。

 

 律法の本来の目的を正しく認識できる人々は、律法を通じて、「信仰による義」の必要性を悟り、キリストにおいてそれが成就したことを悟った。

 

 しかし、プライドが高く、自分の行為によって救いに至ることを求めた人々は、キリストの贖いが分からなかった。自力で救いに至ろうとする者にとって、贖い主は邪魔者である。それゆえ、彼らはイエスを十字架につけてしまった。

 

 パウロが否定したのは、このようなプライドの高い人々が求めていた「行為義認のツールとしての律法」なのだ。

 

 ス長老教会をはじめとして、今日の教会の人々は、このことを理解せず、本来神が意図された律法を福音の対極に置くから、無数の矛盾と直面せざるを得なくなる。

 

 もし律法が福音と対極にあるならば、どうして、パウロは、「律法も言うように、…しなさい。」と律法を守ることを進めたのか?

 

 もし律法が愛と対極にあるならば、どうして、パウロは、「愛は律法をまっとうします」と述べたのか?

 

 律法は愛と対極にあるのではなく、律法そのものが愛なのだ。

 

 「自分にして欲しいことを、他人にしてあげなさい。それが、律法であり、預言者です。」とイエスは言われた。

 

 また、律法を一言でまとめると、「神を全力で愛し、隣人を自分と同じように愛すること」であると言われた。

 

 律法は、福音と対立概念ではなく、むしろ、福音そのものだ。

 

 律法は、罪を犯した時にどのようにして神との交わりを回復するかを記しているからである。

 

 また、律法は、「人間は贖いの血によって救われる」ということを示しているからである。

 

 ス長老教会は、律法の意味について、正統派キリスト教の意見を学ぶべきである。そうすれば、律法と福音、律法と愛を対立的に見ることはなくなるはずである。

 

 

 

 

 

 

 

終わり

 

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