神殿において何を捧げるのか
ディスペンセーショナリズムは終末時に神殿が再建され、イエス・キリストがそこから世界を統治されると言うが、神殿とは、ささげ物といけにえをささげる礼拝の場所でもある。
ということは、地上に降り立ったキリストは、そこにおいて大祭司として、いけにえを捧げるということなのだろうか。
「もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法にしたがってささげ物をする人たちがいるからです。」(へブル8・4)
この御言葉によれば、どうも再臨のキリストは神殿において大祭司にはならないようだ。
もっとも、キリストは現在、天において大祭司として仕えておられるわけだから、再び、本体に対する「影」でしかないものに仕えるということはないだろう。
「すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」(8・1−2)
「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。」(6)
それでは、ささげ物やいけにえは、誰が捧げるのだろうか。
レビ族が復活し、アロンの家系のものが大祭司として任命されるのだろうか(はたしてそんな系図が今も残っているのだろうか?)。
また、一番肝心な点であるが、ささげ物やいけにえは何になるのだろうか。
羊ややぎや牛などやハトなどを殺して捧げるのだろうか。
それじゃあ、キリストの犠牲って一体何だったの?という疑問が起こるのだが、ディスペンセーショナリズムはどのように答えるのだろうか。