パウロは再臨がすぐにも来ると考えていた?
<ご質問> 次の個所をどのように考えたらよいでしょうか。パウロは再臨がすぐにも来ると考えていたのではないでしょうか。
「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(第1テサロニケ4・17)
<お答え>
17世紀の著名な注解者John Gillの解釈を見てみたいと思います(http://bible.crosswalk.com/Commentaries/GillsExpositionoftheBible/gil.cgi?book=1th&chapter=4&verse=15)。彼は次のように述べています。
「この個所から、すぐに、使徒パウロは『自分や肉体を持っている聖徒たちが、キリストの再臨まで生き残る』と考えていたのだ、と結論することはできない。というのも、第2テサロニケ2:1−3からもわかるように、彼は、キリストの来臨が間近に迫っているとは考えていなかったからである。テサロニケの人々は間近だと信じていたようだが、パウロはこの箇所において彼らの考えを退けている。パウロは、自分と他の人々を一人称複数形で表している。つまり、「例えば」の話をしているのだ。すなわち、「自分や他の人々(私たち)がもしその時生き残っているとしたら、こういうことになるだろう・・・」と述べている。さらに、彼は他の聖徒たちやまだ生まれていない人々についてもこのような表現の仕方をしたのは間違いではなく、また、パウロが「キリストが二度目にやって来られる時に、自分もその場に居合わせるだろう」と述べたとしてもおかしくはない。なぜならば、すべての聖徒たちは、一つの体、一つの家族、一つの教会、一つの群だからである。私たちの体、家族、教会、社会を構成している多くの人々はキリストの来臨の際に確かに生きているので、「生き残っている私たち」という表現をした。・・・」
ここで Gill は2つの点について述べていると思います。
(1)パウロは再臨まで自分が生き残っていると考えていたとすることはできない、ということ。
もし、そのように考えていたならば、他の箇所においてもそのことを述べていたはずです。しかし、そのような箇所はありません。Gillも述べているように、同じテサロニケの教会にあてた手紙の中で、そのような性急な判断をすべきではないと警告しているのです。一般に、一つの箇所だけからある教理を導き出すことは不可能です。
聖書全体を見ますと、やはり、クリスチャンが弟子づくりをすることによってキリストの敵が足台となるまではキリストは神の右の座にとどまっていなければならないとしなければならないと思います(マタイ28・20、使徒2・35)。(*)
(2)パウロは、自らを一つの体としての教会の一員として「私たち」という言葉づかいをした、ということ。
つまり、再臨のときに生き残っている人々も、パウロにとっては同じ体の一員であり、「私たち」なのです。この箇所において「私たち」と述べているからと言って、即「パウロは再臨の時に生き残っていると考えていた」と考えることは無理があり、むしろ、「私たち」という表現によって、再臨の時に生き残っているクリスチャンも同じ群の一員であり、キリストにあって同じ体験をするのだと述べていると考える方が聖書的ではないかと思います。
(*)さらに、ユダヤ人の回復も、再臨の前に起こらなければならないことである、と聖書は述べています。
「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・21)
万物の改まる時は、イスラエルの回復を経ずしてはありえません。ここでペテロはユダヤ人に対してこう述べています。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシアと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。」(使徒3・19ー20)
ここから、ユダヤ人が主を信じる時までは、イエスの来臨はないと言うことができます。ローマ書では、パウロは、同胞の回復を切望していると述べています。そして、同胞が回復する時が、世界の復活の時であると述べています。
「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中からの復活でなくて何でしょう。」(11・15)
まず、現在のように、ユダヤ人全体がキリストを拒否している状態が改善され、民族的な回心がなければ再臨はないと考えるべきではないでしょうか。(**)
(**)Albert Barnesも同様に、この箇所から「パウロが再臨まで生き残っている」と解釈することはできないと述べています。すなわち、「この表現から、あるテサロニケの人々は『パウロは、自分自身や現在生きている多くの人々が主イエスの来臨の時まで生き残ること、そして、もちろん、この出来事が間近に迫っているということを教えようとしている。』と考えていたことが推察できる。しかし、これは、パウロの意図したところでは『ない』。彼は、この誤りを示そうとして第2テサロニケ2・1−10において釘をさしている。」(Barne's Notes on the NT, Kregel)と述べています。
John Gill については、http://www.dallas.net/sovgrace/johngill.htmを参照してください。
注:私は後にパウロが再臨が自分の時代に来ると考えていたと解釈を変えました。