復活は二度必要である
二回の復活は聖書全体を流れるテーマである。
ヨハネ黙示録20・4−6、13には、第一の復活と第二の復活があると記されている。
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生きて、キリストとともに、千年の間王となった。その他の死者は、千年の終わるまでは、生きていなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。 …海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
前千年王国説や無千年王国説は、第一の復活は、キリストの再臨後の復活であるとするが、聖書によれば、それはキリストを信じるときに与えられる。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました(エペソ2・4-6)。
クリスチャンは、バプテスマによって、第一の復活にあずかり、新しい人となったのである(ローマ6・4)。クリスチャンは、「罪に死に、そして、キリストのゆえに義に生きた者」(ローマ6・11)となった。
それゆえ、「彼らは生きて、キリストとともに、千年の間王となった」という個所は、クリスチャンがキリストとともに昇天し、王となったことを示している。神はクリスチャンを「ともに天の所にすわらせてくださ」った。
パウロも、この2つの復活の違いについて説明している。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされているからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず、初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。(第1コリント15・20−23)
キリストが再臨される時に、第2の復活があるが、その前に、初穂であるキリストの復活があるのだ。クリスチャンは、この第1の復活にあずかる者である。
「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされているからです。」とあるのは、第一の復活が、キリストを信じてバプテスマを受けるときに与えられる復活をさしている。
旧約聖書では、儀式的な汚れは死の状態と等しいと考えられている。なぜならば、儀式に参加できないことは、神の民ではない状態であり、死人の状態だからだ。
すべて死んだ人の遺体に触れ、罪の身をきよめない者はだれでも、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。(同19・13)
この儀式的な汚れから復活するのは、2度にわたる清めの儀式によってであった。
どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。その者は、三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。(民数記19・11−12)
それゆえ、神の集会に加わるためには、死者からの復活を経験しなければならなかった。復活は、三日目に第1回のきよめ、水をふりかけることによって可能であった。
身のきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる。・・・(同19・19)
キリストが「三日目に」よみがえると述べられたのは、この儀式的復活がご自分によって成就することを示すためであった。
復活は二回必要なのだ。
クリスチャンは、第一回目の復活を体験した。
それゆえ、クリスチャンは、「キリストにあって」現在復活の状態にいる。
復活した者は、キリストとともに王である。それゆえ、現在、クリスチャンは世界の王なのだ。
しかし、これが最終的な状態ではない。
再臨の際に第二回目の復活が必要である。
それは、キリストと同じように、栄光体によみがえって、携挙され、昇天することによって完成する。
七日目の清めが表しているのは、この肉体のよみがえりなのだ。