聖書に立つのか立たないのか

 

聖書に立つのか立たないのか
最近、ある雑誌から私の文章を転載したいとの申し出があり、提出したが、いかなる断りもなしに没にされた。

普通、没にするならば、あらかじめ断りを入れるのが筋である。なぜならば、こちらから御願いしたわけではなく、先方から依頼があったからである。内容についてはこちらの側では一切手を加えていない。つまり、掲載しようと決断した時に読んだ内容と、こちらが提出した内容にはまったく変化がなかった。ということは、問題は、文に原因があるわけではないということになる。原因は、恐らく、その後にある人からの入れ知恵があったからだろうと推察される(その事実があることは知っている)。こちらの立場についてのマイナスのイメージを植えつけられたからだろう。

しかし、たとえ後になって編集の方針が変わって没にすることになったとしても、最低でも、断りの一報があってもよいはずである。

こういったクリスチャン以前の、人間としての、社会人としての、最低のエチケットも守れないのはなぜか。

それは、問題を顕在化させたくないからだろう。
つまり、没にするに至った理由についてこちらと対話すると、結局議論に巻き込まれることになると知っているからだろう。そして、議論すれば、自分たちの方に勝ち目はないと知っているからだろう。

クリスチャンは、聖書から堂々と議論すべきである。
「信仰は、議論ではないから…」というのは逃避である。
そういった逃げ口上を使うのは、非聖書的なことをごり押ししたいという後ろめたい気持ちを持っているからである。

聖書に基づかないことをいくらやっても、それはまったく空しい結果に終わる以外にはない。

「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(詩篇127・1)

どんなにその団体が大きくなって、影響力を増しても、裁くのは主である。最後の審判において評価されるのは、集めた人の数でも、組織の大きさでも、動かしているお金の額でもない。

主の裁きは、「どれだけ聖書的なことをしたのか?」という一点にあるのだ。

聖書は神の啓示である。聖書だけが唯一の基準である。だから、聖書的であるということは、その人や団体の結果が成功するか失敗するかを分ける唯一の基準なのだ。

神への真の献身があるならば、コソコソ隠れて、聖書の教えに逆らって事を進めるはずはないのだ。今、自分の胸に問いかけて欲しい。

「自分は、金や銀や宝石で家を建てようとしているのだろうか、それとも、木や草やわらで建てようとしているのだろうか。」(1コリント3・9-15)と。

 

 

02/03/27

 

 

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