神道は寛容か?

 

Tさん。もう少し冷静になって歴史学びなおしてくださいな。

神道は包容的だなんて、歴史をちょっと勉強すればすぐにウソだってばれますよ。

キリスト教に対して、宮城遥拝を強制したのは、事実でしょ。そんな生き証人何人も知ってますよ。

美濃ミッション、ホーリネス教団に対する大弾圧は有名じゃないですか。「天皇とおまえたちの神はどっちが上なんだ?」って特高に、爪の間に竹串をつっこまれて、ぶったたかれて、獄死した牧師だっているんだから。

政府とつるんで、やったのは国家神道だったわけでしょ。

御真影に敬礼するのを拒んだ内村鑑三が、一高の教職を追われて、毎日のように家に石を投げられて、心労がたたって奥さんが死んでしまった。これをやったのも、みんな、神道信者ですよ。

私の田舎での話。町内会で、神輿を作ろうということで、各家に割り当て金を徴集しにきた人がいたので、父親が、「宗教が違うから出せません」と言った。すると、その神道信者が、「えっ、あなたは日本人じゃないのか。日本人なら、神社に参拝するのが当然だろ。」というようなことを言い、しばらくの間、町内で変人扱いされた。これが、寛容ですか?

そもそも、今、あなたたちがやろうとしていることそのものが、不寛容なんですよ。

キリスト教など他宗教の信者たちが、「首相は参拝しないでくれ」と言っているのに、「参拝すべし」と頑固に言い張る。これが、包容的ですか?

人の嫌がることを無理やり押し切ろうとする、これが、包容的ですか?寛容ですか?

目、覚ましてください。

(神道信者以外)誰が見たって、神道が寛容で包容的なんてこと、信じられない。

それから、キリスト教の話ですが、スペインが何をやったか、列強が植民支配をやったことに宣教師が御先棒担いだなんて話は、ここで何度も答えて、もううんざりしているというのが正直なところだが、答えましょう。

聖書は、「侵略してはならない」と言っている。

「盗むな。」「人のものを欲しがるな。」「殺すな。」とは、キリスト教の基本律法なのですね。

そして、こういったことをする人々は、キリスト教会から除名しなければならないとも定められている。

つまり、彼らは、クリスチャンでも何でもないのです。

イエスは、「剣を取る者は、剣によって滅びる。だから剣をさやに収めなさい。」と弟子たちに言われた。

宣教師が、侵略の御先棒を担いだのが事実ならば、そんなの宣教師じゃないんです。すでに、クリスチャンであることをやめているから。

いいですか?

あくまでも宣教は、言葉によるのです。言葉と教えだけです。武力によるのは、相手の人格を否定することであって、愛ではありません。

パウロは次のように言いました。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(1コリント131-3

愛がない宣教なんて何でしょう。宣教師が、植民支配に協力して、現地の人々を搾取し、彼らを苦しめ、悩まし、阿片づけにし、殺し、むさぼるのは、宣教師のやることですか?

だから、スペインがやったこと、ローマ・カトリックもプロテスタントも、海外進出において、もし搾取をキリスト教の名のもとに行ったとするならば、彼らは、キリスト教を否定しているのです。

だから、彼らをキリスト教の代表と見ることは絶対にできません。彼等が勝手に名乗って行ったことであって、聖書の精神を否定するサタンの業であるといわねばならない。

我々日本人は、教科書が反キリスト的であり、キリスト教の悪い部分しか紹介されない傾向があるが、キリスト教が行った世界各地における、慈善事業、病院建設、学校建設、などを見てください。

日本にだって、青山学院大学とか、上智大学とか、多くのミッションスクールがあるでしょう。貧民街で、路傍で死んでいく人々のために全生涯を投げ出して働いた人々は、世界に数え切れないくらいいるでしょう。ナチスドイツの収容所の中で、他人の身代わりに餓死刑を受けたコルベ神父の話もあるでしょう。青函連絡線・洞爺丸が沈没したときに、一つしかない救命具を一人の女性に渡して、「わたしは死んでも天国に行けます。どうか陸地についたら教会に行ってください」と言って溺死した米国の宣教師もいるでしょう。

日本にも、キリスト教の名前のついた病院を数多く見るでしょう。病院のマークの中には十字架があるでしょう。赤十字のマークも十字架でしょう。

「あなたの隣人をあなたと同じように愛しなさい。これこそ、律法と預言者です。」とイエスは言われた。そもそも、イエスは、私たちのために、十字架にかかって死なれたのです。

Tさん。神は、あなたを愛しておられるのです。あなたのために、ご自分のひとり子を十字架にかけて死なせてくださったのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ316節)

 

01/08/11

 

 

 



ツイート