世界の未来は我々の肩にかかっている

 

 「神につくのか。それともバアルにつくのか。どっちつかずのことをやめて、どちらかはっきりしなさい。」

 

 エリヤはイスラエルの民に対してこう言った。

 

 ヴァン・ティルは、これと同じことを述べた。

 

 「この世に存在するものは、すべて神に属するか、サタンに属するかのどちらかしかない。中立は存在しないのだ。」と。

 

 もし、ジョン・マッカーサーのように「我々の使命は人を救いに導くことだけであって、制度の改革は我々の仕事ではない。」というならば、我々は、世界の大部分を中立の領域として放置することになる。

 

 しかし、ヴァン・ティルが言うように、中立の領域などこの世には存在しない。

 

 神がイスラエルに命じたのは、「すべてを支配せよ。カナン人や彼らに属するすべてのものを一つも残してはならない。」という徹底した清めであった。

 

 権力は真空を嫌う。

 

 例えば、日本政府が日本のある島について領有権を明確にしておかなければどうなるだろうか。他の国々はそこを放っておくだろうか。

 

 韓国や中国、ロシア、台湾などがその領有権を主張するようになるだろう。

 

 同じように、我々が「中立の領域」として残した部分は、必ずサタンによって牛耳られる。

 

 19世紀の初頭に前千年王国説が勢いを盛り返して、今日まで世界のキリスト教を支配するようになったために、サタンはやりたい放題のことをやってきた。

 

 宗教改革から18世紀までのキリスト教を主導した神学は、キリスト教による世界支配を主張した。海外宣教を強力に推し進めた人々は、ピューリタンたちであった。

 

 しかし、19世紀になって登場した前千年王国説のキリスト教は、世界支配ではなく、再臨待望という逃避の道をクリスチャンに示すようになった。

 

 クリスチャンは、徐々に「世俗」の事柄から手を引き始め、ついに、「この世は変わらないのだから、この世にかかわずらうべきではない。我々は人々を天国行きのキップを与えるだけでよいのだ。」と言うまでになった。

 

 19世紀の初めから世界中に広がったこの教えは、キリスト教を「非現実的な逃避宗教」に変えた。マルクスがキリスト教を批判したのは、この「非現実性」であった。マルクスは、「キリスト教は、現実の貧困や苦しみに対して解決を与えることができない。ただ教会の中で仲良しごっこをしているだけである。」と批判した。そして、現実を変える代替案として提出したのが共産主義だった。

 

 事実、共産主義が蔓延ったのは、汚職や堕落によって腐敗した政権を持つ国々においてであった。ロシア、中国、ベトナム、キューバなど、自ら現実を変えることができなくなった腐敗した政権はマルキストによって打倒された。

 

 世界は革命によっては変わらない。革命はさらなる悲劇を招来するだけである。世界は、クリスチャンによって変わる。

 

 なぜならば、クリスチャンだけがこの世における「光」であり「塩」だからだ。そのクリスチャンが「光」であり「塩」であることを放棄したら、世界には希望などなくなる。世界を変えることを放棄するクリスチャンは、世界を絶望に投げ落とす者である。

 

 前千年王国説は、クリスチャンに「光」であり「塩」である自覚を捨てさせる間違った教えである。

 

 今こそ、我々は、エリヤの声に耳を傾けなければならない。

 

 「あなたたちは、神につくのか、それともバアルにつくのか。」

 

 この世界に存在するすべてのことについて、我々は、神からこのチャレンジを受ける。

 

 教育について、神につくのか、それともバアルにつくのか。

 政治について、神につくのか、それともバアルにつくのか。

 芸術について、神につくのか、それともバアルにつくのか。 

 経済について、神につくのか、それともバアルにつくのか。

 ・・・

 

 中立は存在しない。どっちつかずはできない。

 

 我々があらゆる領域について神につくならば、我々はあらゆる領域を変えることができる。そして、世界に希望を与えることができる。

 

 世界の未来は我々の肩にかかっている。

 

 

 

 



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