所有について
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ご質問>毎回ありがとうございます。今回は所有権について質問があります。
富井先生はいぜん人間は神様から財産を預けられているということを述べておられました。これは聖書のどこの部分に基づいているのでしょうか?福音書の「不正な管理人」のたとえなどではまだ弱いような気がします。他に所有権を規定した律法があれば教えてください
(所有権に制限を設け、貧者に施すように命じた律法はいくつも見当たります)。人間の財産も身体も基本的には神様の所有物であるといわれますが、それにもかかわらず私たちは自分たちの判断で、他人に被害をもたらさない範囲において、それを用いる権利を主張できるのでしょうか?そうでなければ、一般的に自然権を根拠に主張されている所有権とは性質が全く異なることになりますが。お忙しいところ恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
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お答え>自然権に基づく所有においては、所有者は、所有物についての究極の権利を持っているとされます。共産的社会においては、国家が究極の所有者になり、国民は国家から財産を預けられているという考え方をします。
聖書において、万物の究極的所有者は神です。
「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものだ。」(詩篇24・1)
神は、我々に財産を委ねておられます。
「地を従えよ。」(創世記1・28)
アダムはエデンを管理するように命じられました。
「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創世記2・15)
イエスは、人間は、主人の財産を預けられ、管理し、それで商売するように命じられた者に似ているといわれました。
「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」(創世記25・14-15)
人間は、預けられた物で商売をし、どの程度神の利益に貢献したかによって、最後に評価されます。
「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』…ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ25・14-30)
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』」(マタイ25・31-36)
「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」(ルカ12・48)
しかし、所有物の自由な使用が全面的に禁止されているわけでもありません。私たちは、所有物を楽しむことができます。
「実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」(伝道者5・19)
「その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。」(申命記12・7)
「あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。」(箴言5・18)
「だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。…」(イザヤ65・18)
人間が所有する物がすべて主のものであることを示すのは、十分の一です。
十分の一は、自分の所有物のなかで最良の部分でなければなりません。現在は国家が十分の一を源泉徴集しますが、本来は神がそのようにする権利を持っておられるのです。まず、収入があったら、その初物の最良の部分、十分の一を主に捧げなければなりません。
「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。」(箴言3・9)
「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものだ。それは主の聖なるものだ。」(レビ27・30)
「あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。」(申命記12・6)
「また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。」(創世記4・4)
もし、最良の初物、十分の一を捧げていなければ、その人は神をすべての所有者と認めていないのであり、偶像礼拝者です。カインの捧げ物が拒絶されたように、そのような献げ物をしない人を神は喜ばれません。
「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」(創世記4・5)
十分の一をしていない人は、泥棒と呼ばれています。
「…あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。」(マラキ3・8)
これらのことから、十分の一を献金しない人を、教会はクリスチャンとして認めるべきではなく、十分の一献金を教会員として留まるための必須条件にしなければならないことが分かります。
人間は、神から財産を委ねられており、それを自由に所有することができます。しかし、そこには制限があります。それは、第一に、神の法に従わない所有の仕方をしてはならない。神の法に従わない使い方は、所有物の究極的所有者が神であることを無視しているから。第二に、収入の最良の部分、十分の一は神のものであり、それを教会や神の御国の働きのために捧げなければならない。(*)
(*)
現代の国家は、我々の所有の
40%以上を奪い取っているため、この部分は泥棒の被害にあった部分とみなすことができます。泥棒の被害にあった部分は、十分の一の計算に入らないため、実際に捧げなければならないのは、収入の六分(6%)となります。
02/03/13