抜け目のない人になろう
どの社会でもそうだが、永遠の世界における自分の地位を考慮しなければ堕落するのはあたり前である。
「来世はない、人間はみな死ねば終わりだ。」と考えるならば、「じゃあ、この世において賢く振舞って、自分の快楽のために生きようではないか。」と考えても不思議ではないだろう。
しかし、この世界は、永遠の世界に入るための試験期間なのだ。
肉体において何を行ったのかが、永遠の地位を決定する。
肉体を与えられている現在、我々は、何のために生きるのか。
自分の欲望のためか。
金持ちになるためか。
権力を得るためか。
エゴイスティックな目的のために生きても、何も得られない。
エゴイストたちを待っているのは、永遠に燃え続ける地獄の火炎である。
人間は、神のために世界を管理しなければならない。
どのように神を喜ばせたか、ということだけが評価の基準である。
神の支配と権威を確立するために働いたのか。
自分のためではなく、神の国を拡大するために金銭や時間を遣ったのか。
「不正の(=この世の)富で友を作れ。そうすれば、富がなくなったとき、彼らが永遠の住まいに招き入れてくれるだろう。小さなことに忠実な者は大きなことにおいても忠実である。小さなことに不忠実な者は大きなことにおいても不忠実である。」(ルカ16・9−10)
この世においてどのように自分の財産を遣ったのか。
この世において我々に与えられている富は「小さなこと」である。永遠の世界において与えられる富は「大きなこと」である。「小さなこと」であるこの世の富において忠実でなければ、「大きなこと」である永遠の富を与えられることはない。
ある人々は、救いを受けているのだが、永遠の報いについて無頓着なため、自分の利己的な目的のために人生を使い果たす。彼らは、御国に入ることができるが、報いは何もない。
このような人々は、「抜け目のある人々」である。
「抜け目のない」(ルカ16・8)人々は、常に永遠の世界においてどのような報いを受けることができるかに意識を向けている。
宣教のために金銭を遣い、困っている人々を救い、孤児を養い、在日外国人を愛して彼らを助け、病人のために時間を費やし、御言葉の働き人に援助し、不正や堕落を糾弾し、公正な政治を行い、社会正義の実現のために働くならば、その人の受ける報いは大きい。
この世において受ける報いなど、十年単位である。金持ちになっても、死ねば終わりである。
しかし、永遠の世界において受ける報いは、億年単位である。いやいや、億年どころではない、その百億倍である。永遠の世界における報いは「永遠に」続く。
どちらが得だろうか。もし、あなたが抜け目のない人ならば、分かるはずだ。