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<御便り>
富井先生、私は悔い改めます。
本当に信仰も持てずに、自暴自棄になって昔の罪に苛まれていました。そんな、私の投げやりな、ぶっきらぼうな失礼はなはだしい質問の数々にも、先生は何一つ文句も言わずに親切に答えてくださって、ありがとうございます。先生みたいな人のことを、キリスト者って言うのですね。先生は理屈っぽいただの頭でっかちだと思っていましたが、本当は愛の人だったんですね。もう、先生からのお答え『神の恵みを無視してはならない』『真の悔い改めは「やる気」を生み出す』『現代において、神は不在なのか?』を何度も何度も読み返しています。その度に、もう捨てようと思った信仰が強くなって行くのを感じます。本当に悔い改めて、こんどの日曜日には離れていた教会へ帰ります。
今は少し興奮気味ですが、よく考えてみると私が不信仰に陥った原因は些細な事だったんです。なんでも元ヤクザだった人たちが悔い改めたとかで、そんな事を耳にして私はずっと教会へ通っていたのに・・・。なぜ神は・・・と、つまらない自分のメンツのために主の教えから離れていってしまったのです。悪の限りを尽して、はい悔い改めました。神さまは愛です。なんて言っている、元ヤクザ達が許せなかったのです。でも今回の質問で、そんな疑問も消え始めました。私だって彼等に負けないくらい、罪びとなのですから。神さま、本当にご免なさいです。
私の名前を名乗り忘れていましたが、本当に名乗る価値のないカスです。そのため名前は、目標を高く持って「キリスト者を目指す者」、ということにしておいて下さい。
またお世話になることがあるかも知れませんが、その時は宜しく!!
先生からの解答を何度も読み返していると、まるで自分が主と出会った時のザアカイの心境になります。富井先生、ありがとうございました。
<御答え>
御役に立てましたら幸いです。
サタンは信仰の確信を奪おうとして、常日頃から我々の行動を監視して、隙をうかがっています。救いの確信を奪えば、あとはたやすく堕落させられるので、まず自分が救われているかどうか、疑わしい気持ちにさせます。
人間は、信仰においても、肉体と同じように、鍛えることが大切です。
信仰を鍛えるとはどういうことかと言いますと、周りの事情がどうであれ、神に対する信頼を失わないために「無理やりでも信じる」ことです。
これは、盲信という意味ではありません。
一度、理性的、感情的に確信を得たならば、その後どのような環境においても、その確信を持ちつづけることができるように信仰を鍛えるのです。
新しいクリスチャンは、信仰を鍛えられていないので、違った教えに触れると、ぐらっときます。「もしかしてこっちのほうが正しいのではないだろうか?」とふらふらと教えの風に吹きまわされます。
それゆえ、新しいクリスチャンは、人間に依存することになるのです。牧師先生や、兄貴分のクリスチャンなどに頼って信仰生活をはじめます。それはある意味において仕方がないことです。新生児が突然自立して働き始めることなど不可能です。
しかし、年数が経つと、神は自立するように促しますので、次第に試練の度合いが厳しくなります。それは、自立したクリスチャンを成長させようという神の配慮から起こることです。
このサイトは、いわば、そういったクリスチャンの自立を助けるサイトと言ってもよいかもしれません。信仰の確信を与えられて、さらに御言葉に深い理解を与えられるならば、これ以上幸いなことはございません。
また、何かあれば、よろしくお願い申しあげます。
02/02/16
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