Simple Lifeへのあこがれ2
>>しかし、神は、けっしてSimple lifeを望んでおられない。
>>神が望んでいるのは、より複雑で、分業化された社会である。
>富井さんは、神がどういう意志をもって、人間社会を分業化させているとお
>考えですか。あるいは、
>>文明はよりはやく進歩する。
>なぜ、文明は発達しなければならないとお考えなのでしょう。
>農業を中心とした社会はだめな社会なのでしょうか。
神が人間を創造された目的は、「生めよ。増えよ。地を満たせ、地を従えよ。」(創世記1・18)とあるように、被造世界を神の目的にしたがって統治し、それを発展させ、神の御心にかなった文明を建設することにありました。
神は、アダムの前に動物を連れてきて、名前をつけさせます。
聖書において名前は、その対象の本質を理解し、それを表現するものですから、アダムは、動物の性質を理解して、それにふさわしい名前をつけたと思われます。
人間の被造世界支配は、正しい知識と労働によって進展します。
ですから、科学は人間にとって発達させなければならないものであり、科学の発展は神の国の発達にとって本質的なものです。
科学が発達し、文明が進歩することによって、人間は様々な利益を受けることができます。例えば、医学の進歩によって、不治とされていた病気が克服されます。
ベーコンが述べたように、科学の発展は、アダムが被ったのろいからの解放であり、死から生命への進展ですので、それは救済的意味においても価値があるものです。
人間が霊魂においても、肉体においても、死から離れ、生命に近づくことは、神の御心であり、歴史においてこのような働きが進展することは神の計画の重要な一面なのです。
それゆえ、文明が発達しないでもいいと考えることは、神の被造世界の支配・発展・完成という聖書のテーマと大きく矛盾するのです。
農業は、神が人間に与えた職業であり、それ自体価値のある仕事ですが、農業だけでよいのだ、と考えることはできません。
人間の手足で水を汲んで灌漑することは、ポンプを導入することによって、省略することができ、そして、もっと効果的に水を汲むことができるようになります。
人間が計算すると1年もかかる計算でもコンピュータにやらせれば1秒でできてしまいます。
こういった人間の発明を無意味だとすることはナンセンスです。
それでは、農業だけでよいとする最近流行の思想を持つ人は、なぜ自分がこういった文明の利器を利用しているのか説明しなければなりません。また、自らすすんで、文明の恩恵のないプリミティブな世界になぜ帰ろうとしないのでしょうか。
>>反復作業や機械化できる作業をみな機械にまかせて、人間はよりクリ
>>エイティブな仕事に従事すべきである。
>>神は、一言で世界を瞬時に創造できるが、人間は、互いに助け合い、
>>持ち場持ち場の責任を請け負って、複雑な社会を形成しなければやっ
>>ていくことはできない。
>では、人間の本性(もって生まれた能力)のみでは、存在できないのでしょうか。
>人間はもともとひとりでもやっていける能力を持っていると思いますが。
>現実社会ではできませんが、潜在能力としてはできるはずですか。
肉体的にも、精神的にも人間はひとりでは生活することはできないと聖書は述べています。
神はアダムが一人であるのをごらんになって、「人が一人でいるのはよくない。」といわれました。
アダムには生殖能力が与えられ、彼から多くの人間を生み出して、社会を形成させることは、神の計画に最初からあったことでした。
もちろん、一人で生活することが物理的に可能かもしれませんが、やはり、それは人間が作られた目的に反しているので、異常な状態というべきでしょう。
ロビンソンクルーソの物語のテーマも「人間は社会なしに生きられるか。」というところにあったように思われますが…。
>>Simple Lifeへのあこがれは、非聖書的であり、それは、人間の神化願望の反
>>映なのだ。
>神化願望? 持ってはいけない感情なのでしょうか。
>若干、この感情について、説明が足りないように感じます。
>誤解されやすいように感じますが。
アダムに対するサタンの誘惑は、「あなたは神のようになれる。」ということでした。
人間の本質的な罪は、神になろうとすることにあります。
自分で善悪の基準を設定し、自分の思いのままに回りの世界を動かすことが人間の原初からの野心でした。
>今回の富井さんのメールからは、人間はどんなに努力しても神のように
>なれないと考えているように感じます。
>「完全なものになりなさい」
>イエスが絶対的にできないことを我々に要求していると思っておられますか。
神が「完全なものになりなさい。」といわれたのは、「わたしが聖であるように、あなたがたも聖となりなさい。」ということであって、神のように「自分で善悪を決定する至高者」になれということではありません。
人間は、神の善悪の基準にしたがって、自らを神のように聖くすることを求められていますが、それは、あくまでも「神の下にあるものである」という限定つきの「神化」なのです。
人間の完全とは「倫理的」であって、「形而上的(存在論的)」ではありません。