罪や依存は解決にならない
息子の家庭内暴力に苦しむある親が心理学カウンセリングで有名なある牧師に相談に行った。
この牧師は、フロイト心理学を大学で研究し学位も持っている。
彼は、このように言った。「お母さん。息子さんは小さいころにあなたの愛情を受けられなかったので、心に空洞ができているのですよ。息子さんはその埋め合わせをしようとして暴力を振るっているのですから、今は我慢して耐えてください。」と。
しかし、あまりにも暴力がエスカレートするので、その母親は恐怖を覚えるようになった。
心理学において受容は大切な概念である。受容しなければ、子どもの人格が健全に成長することは難しいのは事実である。
しかし、この世の中には受容してよいものと悪いものがあるのだ。
この区別をヒューマニズムの心理学は教えてくれない。
親への暴力は、受容してはならない事柄の筆頭にあげられるものだ。なぜならば、神は、「親に向って暴力を振るう者を処刑せよ。」と命じておられるからである。
子どもにとって親は神の権威を帯びている。
親に向って手を上げることは神に手を上げるのに等しい大罪である。
「いや〜、tomiさん。そんなに簡単に割りきれないんじゃないですか。」と言われるかもしれない。
しかし、私は、この世界には、神の原理が働いていると信じているので、親に暴力を振るうことが解決になるとは絶対に考えられない。
罪は、何事も解決できない。罪を犯せば犯すほど、神の呪いはますます重くのしかかる。この世界では、神の倫理的な取り扱いは絶対である。だから、親に向って手を上げるならば、ますます、その息子は泥沼の中に入り込んでしまう。
麻薬患者に向って、「麻薬をやっている自分を受け入れてください。」とアドバイスしてどのような効果があるのだろうか。麻薬患者の子どもを持つ親に向って「麻薬をやっている息子さんを受け入れてあげてください。」とアドバイスして何になるのだろうか。
罪は受容の対象にはならない。罪は捨てる以外に解決はない。麻薬はやめる以外に解決はない。
自分が子どものころから愛されていないと感じたならば、新境地を探して愛する能力のある人の仲間に入ることである。
人を愛することができない人を愛する人に変えることは非常に難しい。それは、その人の長年染み付いた価値観を根底から変えなければならないからである。まして、暴力でそのような人の心を変えようなどと考えることはもってのほかである。愛したり受け入れたりする能力のない人に向って、突然愛を求めても徒労に終わるだけである。
もし、自分が、先日の成人式で酒をラッパ飲みしたりクラッカーを鳴らしたりした連中のように、「体制の中に留まり、それに依存しながら、その体制に反抗する」ような幼児性があると気づいたならば、早く依存することをやめることである。
依存していたら絶対に問題は解決しない。経済的に自立するために、自分の職能を磨いてひとり立ちできるように、前向きな努力をすべきである。
冷たい言い方かもしれないが、心の傷や心の空洞は、家庭内にしろ家庭外にしろ、暴力や復讐という名の依存によっては絶対に解決できない。
「友達が悪ければ、良い習慣が損なわれる」というように、環境を変え、自分が自然でいられるような場を作り、目標を定めて目を外に向ける以外には方法はない。