進化論を信じさせたいなら
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ご質問>はじめまして、Tと申します。私自身はキリスト教徒ではなく「進化論者」です。
アメリカでの「進化論を学校で教えるかどうか」の論議に対して興味をもち調べていましたら、このページにたどり着きました。
いくつか疑問に思い質問させていただきます。キリスト教の教義とは離れた、浅はかな質問かもしれませんが、答えて頂ければ幸いです。
@中間生物等の進化論を裏付ける「証拠」さえ発見されれば、進化論をお認めになるのでしょうか。それとも、その場合「中間生物も含めて全ては神が創造した」と解釈なさいますのでしょうか。以前に「研究成果と教えは区別し、認めるべきことは認める」旨のことを述べておられましたが、それも含めて教えて下さい。
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お答え>進化論を証明する中間生物は、見つからないでしょう。なぜならば、中間であるからには、現存する生物がすでに過渡的であることを示す形質を多数保有していなければならないからです。
なだらかな曲線を描いて変化したにしろ、断続的な進化があったにしろ、中間の形質を持つ動物が現在、多数普遍的に存在しなければならない。しかし、京大名誉教授日高敏隆氏が述べているように、「種は不変性が強い」のです。実験においても中間の種が生まれることはない。
「種のプログラムがいかに確固たるものであるかは、実験形態学や実験発生学の研究によってますます明らかになってきた。…ニワトリならニワトリとして、雄ならどのような形になる、雌ならどのような形になるということが、前もって厳密にプログラムされている。ホルモンはこのプログラムの進行にどうしても必要なものであるが、プログラムそのものを変更することは決してできない。…実験形態学の進歩は、このような例をいくつも明らかにした。変えることを目指した実験形態学は、動物が変わらないことを示す結果になった。…こうした事例をみてくると、われわれは二十世紀前半の、つまりこれまでの生物学がわれわれに与えてきた印象とはまったく反対に、種とは変わらないものだという感じを強く受ける。種は進歩、発展を求めて次々と変化していくものであると、生物学では進化ばかりが強調されがちだが、それはむしろまちがっていたようだ。われわれは種の不変性にこそ注目すべきだったのだ。」(『動物の生きる条件』
118〜124ページ。玉川大学出版部)進化論者は、人間も含めて、現存する動物に進化の証拠を見ようとし、痕跡器官を挙げてきたが、ことごとく否定されてきました。
以前、解剖学が未熟だった
18世紀ごろには、脳下垂体、扁桃腺、涙腺、親知らず歯、足の第3,4,5指など、現在有用であると分かっている100もの器官を退化器官と見なしていた学者がいたが、科学的な研究が進んでくるにつれて、退化器官の数はどんどん減って行き、現在では文字通り数えるほどしかなくなっています。事実、ある進化論学者は、「不要な器官など1つもない。必要だからこそ存在しているのだ。従って進化の証拠とは見なせない」(S・R・スキャディング『退化器官は進化の証拠になるか?』1981年)と完全否定しています。ヘッケルの有名な幼生図も、デッチアゲであることが判明し、「個体発生は系統発生を繰り返す」という説も否定されています。ロンドンの聖ジョージ病院医学校のマイケル・リチャードソン博士が、専門誌「解剖学と発生学」の
1997年8月号で、ヘッケルの作成した「動物各種の幼生(胎児)のスケッチ図」を「科学的詐欺行為の最悪例のひとつ」と決めつける最終調査結果を発表しました。ヘッケルの描いた各種幼生の図(最上段左から、魚、山椒魚、亀、鶏、豚、牛、兎、人間)と対応する実物の写真(最下段、ただし人間は除外)とは、どれも似ても似つかないことが歴然とわかります(http://www.millnm.net/qanda/foet.htm)。おそらくヘッケルはヒトの幼生の実物しか見ていなかったのだが、自説を細部まで本物らしく見せかけるために、ほかの動物の幼生をヒトの胎児によく似せてでっちあげたのだろうと、リチャードソンは推理しています。私たちは、ヒトの初期の胎児に現われる鰓裂(鰓穴)は、祖先が魚類だった名残の証拠であるという話を聞かされてきたが、これは、完全な間違いだそうで、正確には弓状の襞と溝にすぎないそうです。もちろん鰓としての機能もありません。魚を含めてあらゆる脊椎動物の幼生に存在し、魚の場合、成長につれてここに開孔ができ、鰓になるだけのものです。最近の専門家は誤解を避けるために、咽頭弓または咽頭溝と呼ぶようになっているそうです。
「医学生用の教本では『鰓裂』の話を一切なくし、その存在を否定している…ヒトの胎児に鰓はないので、『咽頭弓』という用語を使うべきである」(J・ラングマン『医用胎生学』
1975年)また、ヒトの胎児には「尾」に似たものが現われるが、これは昔から進化の証拠とされてきたが、それは本当の尾ではなく、脊柱の先端部分にすぎないそうです。胎児の成長の初期に発達するため突き出るが、ほかの部分が成長してくると最後には尾骨(尾てい骨)に変化するといいます。
このような発生反復説は、もうすでに長い間学界から葬り去られ、議論の対象ともならなくなっていたようです。進化論学者自身が次のように述べています。
現生種の幼生段階に祖先型を探すヘッケルの計画が失敗したのは…すべてこの生物発生則が基本的に誤りだからだ。
19世紀末には、この計画はもうすっかり軽蔑の的になっていた…。(S・J・グールド『異時性』1992年)生物発生則は完全に死んだ。
1950年代にはついに生物学教本から一掃された。真剣な理論的探求の問題としては、1920年代にはすでに消滅していたのだが。(K・S・トムソン『個体発生と系統発生再論』1988年)発生反復説は、
19世紀末には軽蔑の対象となり、1920年代にすでに学問の真剣な研究課題としてはすでに死んでいたのにもかかわらず、私たちは学校などであたかもそれが事実であるかのように教えられてきたのです。種と種の間になだらかな発展の過程があったと考えることはこのように実証的にも難しいでしょう。それと逆の証拠が次々と出ているからです。
本当に進化があったのなら、我々の肉体の至るところに進化のあとがなければならないのに、創造論でも説明のつくものばかりです。
「胃下垂は二足歩行にまだ人類が慣れていないために起こる病気である」というのは、一つの解釈であって、証拠ではありません。胃下垂があるから、進化があるとはいえない。
事実、生物と生物の間には、なだらかな変化ではなく、断続のほうが目立つでしょう。例えば、地蜘蛛が空中に巣を作る蜘蛛に進化したといわれていますが、その中間の「ねばりけのない糸を持つ蜘蛛」とか「不完全に巣を作る蜘蛛」とか、中間の蜘蛛というものがあるでしょうか。たしかに、糸をたらすだけで巣を作らない蜘蛛もいるそうですが、そんなのは創造論で説明がつく。進化によらないでは説明がつかない「固有の証拠」を持つものにであったことはありません。
こういった中間生物の証拠が存在しないことを「それは化石が少ないからだ」という理由しか出せないならば、進化論は圧倒的に弱い。裁判ならば、証拠不充分として訴えは却下されるでしょう。
それから、本当に進化論を裏付けるような中間種が現われたとしても、私は、確率論的に、この複雑きわまりない組織体としての多種多様な生物が自然に、偶然の結果現われたなどということはありえないと思っているので、進化論を信じるつもりはまるでありません。
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ご質問>A「確率がゼロに近いからありえない」とのことですが、それだけで進化論を否定するだけの“根拠”にはなりえないと思います。宇宙の素粒子などと「比較」したところで、前提条件の違う確率同士を比べることはあまり意味がありません。これを踏まえて“確率”がなぜ進化論を否定する根拠になるのか教えて下さい。それに、確率は「“特定の一定の条件下”でXを無限回試行したとき事象が起きる割合」です。ここでの“根拠”は“条件”面で「外部からの影響」を考慮していないように見受けられます。“条件”を加えて考えると、アミノ酸から生物に発展していく過程での“確率”も全く違ったものになるでしょう。それに、「地球上で気候その他、条件が整っている場合の生物の発生、成長の確率」と「火星など厳しい環境下での確率」は全然違ったものになるはずです。
確率を考えるなら、「環境のような“外部的変異因子”が条件、ひいては確率に及ぼす影響(生物が発生したり、DNAが臓器を上手く形成する確率)」も考えなければならないでしょう。私は、その変異因子によって確率は格段に上がると考えます。
(複雑すぎて正確には確率計算はできないでしょうが)もちろん、確率が上がったからといって進化論否定論を否定することはできません。しかし、「ゼロに近い」ことが根拠なのでしたら、少なくとも、以上により根拠に「疑問」を呈することはできるでしょう。ご意見をお聞かせください。
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お答え>「「確率がゼロに近いからありえない」とのことですが、それだけで進化論を否定するだけの“根拠”にはなりえないと思います。」
これは、進化論者の方々の不可解なところです。
確率が限りなくゼロに近いものは起こらないと考えるほうが普通です。
例えば、ある進化論者は、コンピュータもある条件がそろえば自然に生まれるはずだ、と言いました。また、「豚が空を飛ぶことも確率的にはゼロとは言えない」とも言う人がいました。
これは理屈の話であって、実際にそのようなことが起こることを信じることは不可能です。科学理論は、実証性を重んじるわけですから、ある意味において「実現可能性」を必須の前提として組みたてられるものです。いくら理論的に可能であるとしても、実際にそれがあったのか、ということを人々は問題にするのです。「確率がゼロでない以上、豚が空を飛ぶこともないとは言えない。だから、畜産学の一分野として、豚の飛行に関する学問を作りたい」という人は無視されます。
「“条件”を加えて考えると、アミノ酸から生物に発展していく過程での“確率”も全く違ったものになるでしょう。それに、「地球上で気候その他、条件が整っている場合の生物の発生、成長の確率」と「火星など厳しい環境下での確率」は全然違ったものになるはずです。」
この条件そのものが、進化を志向しているものではないのですから、進化に有利に作用するか、不利に作用するかはランダムです。ランダムである以上、それが進化を信じさせる有力な証拠にはなりえないのです。
「ランダム+ランダム
+ランダム+・・・・」は、圧倒的に混沌を生み出すのであって、秩序を生み出すことはきわめて稀だからです。またしても、進化論は、「稀」に依存することになるのです。例えば、光合成の仕組みの成立には、無数の複雑なシステムがからみあっています。しかし、光合成はきちんとした形にならなければ生存に寄与することはないわけですから、その複雑きわまりないシステムが完成するまでの間において、それを築きつつある植物は適者とはならないわけです。つまり、このシステムの形成にかかる何億年もの間、光合成は生存の武器とならず、ただひたすらに偶然に頼って、その機能が実際に役立つようになるのを待っていたわけです。
これは、進化論者が我々に提供する、「キリンは高い木の葉を食べるのに都合がよい首をもっていたから生き残った」という適者生存理論では説明がつきません。
適者生存は、進化論を人々に信じさせるために持ち出された「稀」を減らすための方策だったわけですが、それは比較的単純な事象については説明の道具にはなりえても、分子レベルの代謝システムなどには通用しません。生存に寄与するまでにあまりにも時間がかかりすぎるからです。そこで、こういったシステムの成立は突然変異により、断続的に発展したのだと説明する人がいますが、それこそ、さらに「稀」に依存することになります。
光合成ができない生物からできる生物にジャンプしたということを信じさせるならば、それはもはや科学ではありません。
進化論が思弁や空想を排除する科学的理論であり続けるためには、「豚が空を飛ぶこ確率はゼロとは言えないのだから…」的な説明は絶対に排除しなければなりません。実現可能性が極端に低いということは、それだけで科学としては失敗です。
また、ランダムな要素をさらに追加しても、それは実現可能性を高めることにはなりません。ダーウィンは、人々に進化を受け入れさせるために、適者生存を持ち出したわけです。それゆえにこそ、進化論はこれまで盛んになったわけですから、ランダム以外のものを理由として提示しなければなりません。
「適者生存だけでは説明がつかないことが、科学の発達にともなって出てきた。それでは、進化論者はどのようなランダム以外の要因を出してくるのだろうか。」と非進化論者は注視しているのです。「光合成は、いかなる過程を経て成立したのか。それを成立させる外界の圧力とは何だったのか。」と。
もちろん、「光合成があれば、太陽からの光エネルギーをとりこむことができるようになるのだから、生存強者になることが可能だった。」というような単純化された説明では意味がありません。そのような「一言」で言えるほど光合成は単純ではないからです。
私たちは、具体的過程、例えば、「光合成を成立させている無数の酵素がどのような非ランダムの圧力によって成立し、それがどうして、その複雑なシステムの中で有機的に成立するようになったのか。」ということを知りたいのです。
02/03/02
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