進化論を信じさせたいなら2
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ご質問>【確率について】
確かに「豚が空を飛ぶ」ような事は確率通りまずありえないでしょう。しかし、「生物の発生、進歩」がそれとは大きく違うのは確率がどうであれ「実現」している点です。実現している以上、「確率ゼロではなく、むしろ“普通に起こる化学反応”である」という解釈も成り立ちます。つまり、「生物が発生、進歩する確率」は“ゼロに近い〜必然に近い”という広範な範囲が考えられます「必然」だった場合、進化論否定に対する、少なくとも確率面(パーセントの低さ)での創造論の根拠はなくなるはずです。
そして、いくら確率即ち“パーセント”が低くとも、そもそも自然現象としては普通に起きて当然の現象かもしれないのです。例えば人間は、ある年の経済成長率をみて「高い」「低い」を判断します。しかし、それを測る絶対的基準がないため、経験や比較に基づいて判断します。それは「主観」に基づくものに過ぎません。このことは「生物発生の確率」にも当てはまるでしょう。つまり、“本質的”には生物発生も「必然」の現象かもしれないのです。この場合「確率がゼロに近い場合起こらないと考えるのが普通」であると同時に「ゼロに近くても十分起こり得る」ことになります。
創造論はこの「自然現象にとっての必然論」を否定するだけの「証拠」は持っていないと思われます。しかしながら、残念なことに進化論も「@確率はどれくらいなのかA自然現象にとって当然の現象なのか否か」を明確に説明できるだけの証拠を持ちません。つまりどちらが正しいとも言えないのです。
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お答え>確かに「豚が空を飛ぶ」ような事は確率通りまずありえないでしょう。しかし、「生物の発生、進歩」がそれとは大きく違うのは確率がどうであれ「実現」している点です。
これも進化論者の方々の不可思議なところです。「実現」したかどうかまだ証明されていないのですから、それを根拠に進化論の正しさを説明はできません。「「豚が空を飛ぶ」ことは実現していないが、「生物の発生、進歩」は実現しているから、確率はゼロではなく”普通に起こる化学反応”である。」というのは、進化論が正しくて、現在存在する生物は進化によって生まれたのだ、ということを前提としているのです。
私たちは、「それは違う、現存の生物は神の直接創造によるのだ、生物の発生、進歩はなかった」と主張しているのですから、このような説明は「進化が事実として存在している以上、進化は正しい」としか述べていないのです。裁判において被告が「私は殺人を犯していないと言っているのだから、殺人を犯していないのだ。」と弁明しているようなものです。
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ご質問>そして、いくら確率即ち“パーセント”が低くとも、そもそも自然現象としては普通に起きて当然の現象かもしれないのです。例えば人間は、ある年の経済成長率をみて「高い」「低い」を判断します。しかし、それを測る絶対的基準がないため、経験や比較に基づいて判断します。それは「主観」に基づくものに過ぎません。このことは「生物発生の確率」にも当てはまるでしょう。つまり、“本質的”には生物発生も「必然」の現象かもしれないのです。この場合「確率がゼロに近い場合起こらないと考えるのが普通」であると同時に「ゼロに近くても十分起こり得る」ことになります。
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お答え>このご説明も、同じことです。「確率が低いことでも、それが実際に起こるかどうかとは無関係である。人間の主観によって、『確率が低いから起こりえない』と言うのは間違いだ。それは必然のことなのかもしれない。」というのは、確率の概念そのものを否定しています。
確率とは、「起こりやすさ」を測る指標です。サイコロの1の目が
1回出る確率と、続けて2回出る確率は、それぞれ1/6 と1/36ですが、これは実際にサイコロをころがして見ると、何回も続けていけば次第にこの値に接近していきます。それは、「目の出る特定の傾向(1の目だけが広く、その近くに重心がある、など)がない限り、どの目も同じく出る可能性がある」からです。試行が少数であれば「ビギナーズ・ラック」というものもあるかもしれませんが、多数回行えば、次第に理論どおりの値に近づいていくのです。ランダムとは、このように、多数回重なると、次第に確率の理論に忠実に従っていくのです。気体分子を一列に並べることができて、それをある密閉した空間に閉じ込め、その運動を調べると、次第に拡散していきます。なぜならば、気体分子の運動の方向はランダムだからです。ある磁場をかけたり、空気の流れを作ったり、外からの働きかけがない限り、この現象が確認されます。閉鎖系においてエントロピーは不可逆的に増大するというのは、このように確率の概念から導き出されるものです。
進化論は、生物の進化は、ランダムに起こる
DNAの変異によって起こったとしますが、ランダムは多数回重なれば、次第に無秩序さを増大させていくのですから、DNAの突然変異は、何等かの有効な形質を発現させる方向に向わせるのではなく、むしろ、それを混沌に向わせるのです。もし、それを秩序だてるための外部からの負のエントロピーの注入があったとしても、それは「適者生存」「自然淘汰」の圧力でしかありません。しかし、すでに述べたように、この圧力はマクロの進化には適用できても、エネルギー代謝システムにおける化学反応などには適用できません。なぜならば、化学反応の成立そのものは、けっして適者になるかどうかというマクロの目標とは無関係な無目的的な変化の累積だからです。
つまり、このような反応が成立する過程において無数に積み重ねられたであろう、それに役立つ酵素やたんぱく質の成立、エネルギーや物質のやりとりの仕組みの成立などは、「もっぱらランダムな
DNAの変異による」わけです。もしそこに「自然淘汰」以外の何等かの「意図」や「圧力」「選択」「作為」があるとすれば別ですが、ないわけですから、この過程においてもっぱら働くのは「偶然の原理」だけです。偶然の原理(ランダム)だけでは、現象は、回数を重ねれば重ねるほど次第に確率の理論的数字に近づいていくのですから、数十億年、数億年の月日がたてばたつほど、「確率の低いことは相対的に起こりにくくなり、確率の高いことは相対的に起こりやすくなるので」化学的システムも
DNAも崩壊のほうに向います。
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ご質問>【結論】
「何故、確率ゼロに近くても生物は“進化”するのか。」という疑問を解き明かすことが、進化論と創造論どちらが正しいのかはっきりさせる事につながる。そのためには、光合成形成等の複雑なメカニズムや、そのランダム以外の要素の有無を解明していくことが必要である。負のエントロピーが人為的な操作なしに成立するものかどうかもこれで分かる。
私の「結論」はどうでしょうか。
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お答え>そのとおりです。
「何故、確率ゼロに近くても生物は“進化”するのか。」ではなくて、「確率ゼロに近くても生物は“進化”するのかどうか。」と言ったほうがよいかもしれません。なぜならば、私たちは、進化を「事実」としては見ていないからです。
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ご質問>【補足:中間種(証拠)について】
私は中間種だけが「証拠」になるとは考えていません。
DNAの配列を調べて種の類縁関係を推定し、種間を比較することによって特定のグループが「“共通”の祖先」を持つことがわかります。種のそういった「共通性」は「個々の生物を神が創った」創造論ではなかなか説明がつかないと思われます。私はこのDNAから推定される「先祖からの“枝分かれ”の過程」事こそが、人為的ではなく自然・偶然に生物が進化していった「証拠」だと考えています。
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お答え>「
DNAの類縁関係」ということばそのものが進化を事実としているように聞こえるので、「DNAの類似」としたほうがよいと思います。種間を比較することによって特定のグループが「“共通”の祖先」を持つことがわかります。
わかるかどうかは、不明です。それが神の直接創造によるものであれば、説明がつくからです。
「神は、
DNAが類似した生物を創造された。DNAが類似しているから似たような形質を持つのだ。」とも言えるからです。同じような顔をした二人を見て、「彼らは親類関係にある」と単純に結論できないのと同じです。
似たような設計図があれば、「この車種はこの車種の改良型だ。」とも言えるし、「この車種とこの車種は同一人物によって設計された。」とも言えるのです。
種のそういった「共通性」は「個々の生物を神が創った」創造論ではなかなか説明がつかないと思われます。
説明は簡単です。機能が類似したものを創造される場合に、わざわざまったく異なる
DNAを作る必要はない、ということです。神は、生物を創造されたときに、個々バラバラに創造されたのではなく、「類」や「科目」に分けられるようなカテゴリーにしたがって創造されたと考えられます。我々が、コンピュータのファイルを作るときに、フォルダにまとめて配置するように。神は秩序の神ですから、バラバラに創造されたというよりも、このように整理してカテゴリー・コンシャスに創造されたと見ることができます。私はこの
DNAから推定される「先祖からの“枝分かれ”の過程」事こそが、人為的ではなく自然・偶然に生物が進化していった「証拠」だと考えています。「証拠」というのは、「固有性」と「排他性」を持たねばなりません。つまり、「これ以外では説明がつかない」というものでなければならない。しかし、
DNAを見て私たちがむしろ思うのは、「神は生物を創造されたときに、DNAをベースに創造され、類似した種には類似したDNAを書き記された」ということだからです。もし「証拠」であるならば、私たちの考えを徹底的に粉砕するものでなければならないが、どちらでも解釈可能なレベルでしかない。だから、進化論は一つの信仰でしかないのです。二人の人が、ロールシャッハの同じ絵を見て、「これはコウモリだ」「いや、これは髑髏だ。」というようなレベルの水掛論議では、解決は得られないのです。
02/03/02