腰を落ち付けて学ぼう

 

 最近、本を読む時間がなくて困っている。

 聖書に立った正統的キリスト教の復興というミニストリーを進めるのには、世の中の表面的な現象を追っていくだけでは不充分である。

 「現在、アメリカの福音派では○○の運動が進んでいるから自分もそれに乗り遅れないようにしよう」というレベルでは、日本の伝道は進展しない。

 原理の部分まで深く掘り下げるという努力なしでは、ただ表面的な解決しか得られない。

 原理とは思想・哲学である。

 思想や哲学はどのような社会や人間においても、その最下層部にある基礎である。

 もし社会や人間が病んでいるならば、その根源的な病巣部である思想・哲学を治癒しなければならない。

 だから、教会において教えに携わるように召された牧師や伝道者たちは、思想や哲学を学び、キリスト教の正統的な教理とどこがどのように違うのかを熟知しなければならない。

 現在の神学校教育は、この点をおろそかにしているために、教会はいつまでたっても世の中の根本的な問題に対して適切な回答を与えることができない。

 病気について無知な医者がどうして病気を治すことができるだろうか。

 いや、キリスト教については、もっと事態は深刻である。

 医者自身が、病気に冒されているからである。

 可能性思考が流行っていると言えばそれに飛び付き、心理学が時代の流行であるといえば、無批判にカールロジャースのカウンセリング学を牧会に導入する。

 霊の戦い、教会成長学、聖書の暗号、預言者の群れ・….次から次へと現われる流行に振りまわされ、ついには疲れ果てて息もたえだえになっているのが今日の教会の姿ではないか。

 なぜ原理的に考えようとしないのか。

 なぜ原理まで掘り下げようとしないのか。

 忙しく立ちまわるだけが能ではないはずだ。

 じっくりと腰を落ち付けて、御言葉を学び、思想について学ぶことだ。

 そうすれば、何が真理で何が偽りか見分けることができるようになるだろう。

 忙しく立ちまわるのはそれからでも遅くはないのだ。

「熱心なだけで知識のないのはよくない」

 

 

 



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