悲しむ者は幸いです
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年8月14日説教
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5・4)
この世界は、「悲しむことを避ける」という前提で成立しています。経済学は、「人々は悲しみや不快を避け、喜びや快適を求める」という常識の上に成立します。夏暑いときに、ストーブを売ったり、冬寒いときにエアコンを売る店はありません。人は、夏に涼を求め、冬に暖を求めるものだという一般的な行動のパターンがなければ経済動向を予測することはできません。
人々は、悲しむことを避け、そのためにお金を儲けようとします。お金があれば、悲しみに陥る機会を減らすことができるからです。
お金があれば、空腹をいやすことも、好きな勉強をすることも、子供が病気になったときに充分な治療をしてあげることもできる。
さて、悲しみを避け、快適を求めることは別に悪いことではありません。幸せを求めることは悪ではありません。聖書は、美味しいものを食べたり、音楽を聞いたり、映画を見たりすることを禁じていると考える人々がいますが誤解です。殉教者を過度に賛美する傾向のあった古代の教会では、逃げられる機会があるにもかかわらずすすんで捕縛されて殉教した人が賞賛されていましたが、私たちはできるかぎり長生きをして神のために働くべきです。逃げる機会があるならば、逃げて安住の地において礼拝を捧げるべきだと思います。イエスも、迫害者を避けながら伝道しておられました。イエスの場合、贖罪の使命のために、十字架にすすんでかかられましたが、罪人である私たちはだれの罪のためにも死ぬことができないのですから、避けられない場合以外殉教を求めるべきではないでしょう。
聖書は禁欲主義を教えていません。人間は神の律法の範囲内において自由があります。その自由の範囲内において、神の作られた世界及び文明や文化を楽しむことができる。いや、できるだけではなく、それはしなければならないのです。人間が被造世界や文化を楽しむ以外に神の栄光を十全に現すことはできません。音楽を楽しんだり、絵画を楽しんだり、文学や演劇やスポーツを楽しむのは、人間だけです。人間だけが神の似姿であり、それゆえ、神が美を愛する方であり、豊かな感情をお持ちであり、深い感動を覚えられる方であるということは、無生物や動物たちによっては表すことができず、人間だけがそれを表現できます。
さて、話を本筋にもどしましょう。
悲しみは、この世の人々の誰もが避けたがることです。しかし、イエスは「悲しむ者は幸いである」と言われる。一般に、「楽しむ者は幸いである。」と言うことはできますが、どうして「悲しむ者は幸い」と言えるのでしょうか。
ここで悲しむ対象は、罪です。罪を悲しむ者は幸いなのです。
それは、前節の「心の貧しい者」と調和しています。「心において極貧の人」=「神以外何も頼ることのできない人」は、いつも「悲しみ」の状態にあります。彼は自分の心に何の功績も認めておらず、自分の義を立てず、たえず自分が罪人であることを自覚しています。それゆえ、彼は、たえず神に罪を告白し、「へりくだって」(5)います。
彼は、罪を犯す自分の存在を悲しく思います。彼は、たえず罪と向かい合ってそれを正面から受けとめています。
しかし、この世はそうではありません。この世は、罪と向き合うことを避けます。そして、いつも心を幸せにすることだけを待ち望んでいます。この世の娯楽は、自分の本当の姿を見つめさせないために、様々な気晴らしを提供します。次から次へと、サタンは新しい娯楽、興味を提供し、人々の気持ちを、人生の本質的な問題から遠ざけさせようとします。そのため、人々は、自分の罪と向き合うことがなく、それゆえ、その罪を悲しむこともありません。
ヤコブは次のように述べています。
「罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち、心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」(ヤコブ4・8−9)
この世は、「どの人でも幸せになる権利がある」と宣言しますが、聖書は、罪を犯している人まで幸せになる権利はないと宣言します。罪を犯している人がまず第一にしなければならないのは、苦しむこと、悲しむこと、泣くことです。
自分が二心であり、神と同じかそれ以上に愛しているものがあるならば、それについて悩み、泣くことです。お金が自分の神となっているならば、それについて泣き悲しむことです。家族が、イエスと並ぶ宝となっているならば、それについて嘆き、徹夜の祈りを捧げ、イエスを本当の主としていただくように求めることです。
もし、そのように罪を嘆き悲しむことがなければ、その人は幸せになれません。
なぜならば、「悲しむ人は幸い」だからです。
本当の幸せは、悲しむ人にだけ与えられるからです。
しかし、サタンは、つかの間の幸せを提供します。
「キミ〜!そんなに自分の罪に目を留めてどうなると言うんだい。ますます落ち込むだけじゃないか。ほら、自分の内側なんて忘れて、外を見てごらん。来週、○○のコンサートがあるよ。ハワイとかグアムとか旅行したらどう?そんな内面のつまらないことに気を遣わずに、もっとパーっと愉しいことやろうよ。」と言ってくる。
そこで、「そうだなあ。自分の内側を見つめても、何も解決はないのだし。気晴らしに旅行でもするか・・・。」と考えれば、彼は不幸の悪循環から逃れることはできません。彼は、自分の心を暗くしている真の原因について考えることをやめてしまうので、本当の解決が得られないのです。
本当の解決は、罪と向き合って、それを悲しみ、それを悔い改めてやめることです。そうすれば、神から本当の慰めがやってきます。この世が提供するつかの間の「慰め」ではなく、心の奥底から満足を与える慰めがやってきます。
心に偶像のある人々、二心の人々は、神様からの慰めを受けることができないので不幸なのです。
さあ、今、自分の心を見て、御前に告白していない罪がないかどうか調べましょう。そして、その罪を捨ててしまいましょう。そうするときに、あなたは本当の慰めを与えられるでしょう。あなたの肩から大きな荷物が降りることでしょう。
神から本当の慰めと幸せを与えていただきましょう。