相続財産は悪か?
マルクス主義者やその思想に影響を受けた人々は、相続財産を認めるならば、不労所得を認めることになり社会的不平等を生み出すことになるという。
しかし、聖書は、相続財産は親から子供が受け取る正当な権利であると述べている。もし子供が相続財産を受け取ることができなければ、神の国は発展しないからだ。
神の御国は、信仰によって親が築き上げた資産を子供に相続させて、子供がそれに基づいてさらに大きな仕事をすることによって発展する。しかし、相続財産が認められなければ、子供は1からやり直さなければならなくなってしまう。そして、その財産は国家の手に渡り、信仰とは無関係なことに遣われてどぶに捨てられる。
今日の相続税は、家庭や個人から力を奪い、神の御国の発展を妨害しているので、我々は断固として反対すべきである。
しかし、問題は法律だけにあるのではない。今日のクリスチャンは、「子孫に美田を遺さず」と言うことわざを用いて、相続に実質的に反対している。相続財産を不労所得と考え、相続に罪悪感を持っている。
このような罪悪感は、マルクス主義の教育によって植えつけられたものだ。聖書のどこにおいて相続は罪悪視されているだろうか?聖書においては、相続は中心的な概念である。
「柔和な者は地を相続する。」
クリスチャンは、キリストの功徳によって、相続を得た。クリスチャンは、不労所得を認められた者たちなのだ。クリスチャンは一切神に対して誇れることをしたことがないのにもかかわらず、キリストが代わりにやってくれたおかげで、相続に与っている。
もし相続が罪悪であるならば、キリストの贖いという聖書の根本原理を否定することになる。
聖書において、相続は信仰によって受けることができる。相続を受ける者にとって必須条件は信仰である。我々は、信仰によって、キリストの功績を無代価で相続する。これと同じように、我々は信仰によって、クリスチャンの両親から相続を受け取る。
信仰のない兄エサウは退けられ、信仰のある弟ヤコブに相続が渡った。カレブは、子供にではなく、信仰の人、婿オテニエルに財産を与えた。
なぜ相続が信仰に基づくかは、神の御目的から明らかである。神の御目的は、信仰によって世界を神の御国と変えることにあるからである。不信仰な者、俗物が遺産を相続しても何にもならない。
神の御国は、血縁によって発展するのではなく、信仰によって発展する。霊的なことが理解できない俗物に御金を渡しても無駄に遣うだけである。しかし、霊的なことを理解できる人に渡せば、彼は御国のためにそれを有効に遣う。もしクリスチャン家庭が信仰に固く立ち、子孫を信仰によって教育し、しっかりとした家庭を作ることができるならば、彼の家庭は、神の国の発展に大きく貢献する。その財産によって大勢の宣教師を海外に派遣し、伝道を促進できるだろう。多くの牧師や働き人を養い、御国の発展に貢献できるだろう。
しかし今日、教会において「相続」が「不労所得」として罪悪視されているため、御国は毎世代、一からやり直さねばならない。国家の相続税による搾取もあいまって、日本におけるクリスチャン人口は、かえって減る傾向にあるのだ。
今日、ヒューマニズムは、世界のクリスチャンホームを飲み込んで、「御国なんて関係ない」「人間だけでうまくやっていける」「相続など遺す必要はない。国家に捧げて、公共のために利用してもらおう」という偽の教えを吹き込んでいる。そして、クリスチャンは、その教えを鵜呑みにして、子供たちに力を相続させていない。このような状況が続けば、後
100年たっても、キリスト教徒の数は増えない。いや、むしろ、かえって減るのではないだろうか。我々は、目を覚まさねばならない。
我々に相続に対する罪悪感を植え付けた張本人はサタンであることに気づくべきだ。サタンはクリスチャンホームが強くなることを最も恐れている。なぜならば、もしクリスチャンホームが強くなれば、サタンの活動は大きく制限されることになるからだ。
02/03/25