粗雑なキリスト教批判はゴメンです
宗教批判を軽々しく行う人々に共通しているのは、「偏見」である。
キリスト教についてほとんど知識がなく、ただ、教科書に書いてある断片的な知識とか、一般に言われている歪んだ情報を「前提」として話をするからまったく相手が見えなくなる。
キリスト教を批判するならば、自分の頭の中に染み付いている「誤解」をまず取り除かねばならない。そこに、嫌悪とか憎悪があるならば、なおさら、ものが見えなくなるから注意が必要である。
T
氏のキリスト教批判も同じように、誤解と偏見と抜きがたい差別の発想がある。だから、カトリックとプロテスタントとの区別もしていないし、侵略に加担したキリスト教徒と呼ばれるゴロツキをも、キリスト教と同じと見なしている。およそ、宗教を批判する場合に、その教義と矛盾することを行った人々をも批判の対象にすれば、正しい批判をすることができないのは当然である。
オウムが何をしたとしても、仏教はその犯罪に対して謝罪する責任はない。同じように、キリスト教とは名ばかりで、その内容は、「帝国主義」でしかないものをキリスト教と同一視されては、非常に迷惑である。
為政者は、宗教を利用しようとする。そして、宗教の責任者で、その利用にのっかって、自分もそのオコボレに与ろうとする人間が、キリスト教の看板を出して、植民地に出向いていって、現地の人々を搾取し、虐待する。
こういう人間どもは、チンピラであって、宗教人でも何でもない。オウムと同一視されることを嫌う仏教徒と同じように、私も、こういったチンピラと同一視されることを嫌う。
しかし、
T氏は、同一視しないでくれと、何度言っても、同じように繰り返し繰り返し、「あなたたちも批判されるべきだ」と言う。だから、
T氏の批判には価値がないのだ。宗教の内容を細かく検討する気もないのに、「どだい、キリスト教はだな〜」というような粗雑な批判はその人間の教養を疑わせるのに充分である。
聖書は、「強奪する者」「殺す者」を教会から追い出せ、と命じている。だから、教会は、こういった人間をクリスチャンとは呼ばない。そのしるしは、聖餐のパンとぶどう酒を拒絶することである。スペインだの、日本キリスト教団だの、侵略したり、侵略者の手先になるような人間は、聖餐に与ることはできないのだ。
しかし、粗雑な批判者は、こういった除名されるべき人々をもクリスチャンと十羽一からげにして、「キリスト教は侵略した」と連呼するわけである。
この
BBSでも、このことは何度も主張してきた。しかし、このような雑なキリスト教批判があとをたたないのは残念だと思う。
01/08/15