人間の肉体は霊の家である
今日、改革主義においては霊に関することを軽視する傾向があるように思われる。
悪霊などについて語ることがタブーになるような風潮は確かにある。
しかし、聖書から霊に関する教えを取り除けば、まさに換骨奪胎である。
聖書は、この世界の本質は霊と霊の戦いであるといっている(エペソ6章)。
人間は、あたかも家のようなものであり、その家の中に何らかの霊が住んでいる。
旧約聖書の神殿は、神の霊の住まうところであり、新約聖書において、神の霊の住まいはクリスチャンの肉体であるとされている。
真のクリスチャンの肉体には聖霊が宿っている。
しかし、この肉体は、悪霊の住まいになることもある。
聖書に数多く登場する悪霊憑きたちは、悪霊の支配を受けているのであり、これは、人間の肉体が「霊の家」として創造されたからである。
霊の支配が強まるにつれて、その霊の性質は、肉体に現われるようになる。
だから、聖霊を宿している人の肉体は聖霊を反映し、照り輝くようになり、悪霊を宿している人の肉体は、悪霊の姿を反映するようになる。
よく耳がとがって目がつりあがったサタンの図を見かけるが、あれはあながち迷信とは言えないと思う。
サタンにとりつかれている人の姿は不思議にもあのようなものに似てくる。
パンク・ロックや、ヘビメタの衣装や姿は、彼らの中に働いている悪霊を反映している。
オウムの信者たちのファッション、麻原のお面をかぶって踊る信者たちを見て、悪霊を感じないわけにはいかない。
とくに、新実容疑者はサタンの姿を顕著に反映しているように思われてならない。
人間は、その中に住んでいる霊の本質を反映せざるを得ない。
彼が書いた文章、彼が描いた絵、彼が歩いている姿、こういったものに霊の本質は現われる。
東南アジアの寺院の形や演劇に登場するキャラクターのお面や衣装に、悪霊の姿を見るのは私だけだろうか。
オウムのマーク、統一教会の教祖の衣装、神社の巫女の衣装、右翼の黒塗りの宣伝カー、共産主義国の国旗のデザイン…。
ライフスペースの信者たちが記者会見で見せた、自信に満ちたそぶり、よどんだ池の水のごとくトローンとした顔の表情は、どうも、オウムや「幸福の科学」の信者たちとダブってしまう。
悪霊は隠れることはできない。
それと同様に、聖霊もはっきりと人間を通して現われる。
ある知り合いの牧師の後姿を見てハッとしたことがあった。
後頭部から光が照り輝いている。
祈りに励んでいる人は老人になればなるほど、光を増してくる。
人間の肉体は、霊の家として造られているので、その住民の姿を反映せざるを得ない。
「あなたがたの肉体は、聖霊の宮である。」