スポーツについて
<ご質問>
シドニーオリンピックが近づきつつありますが、現代のオリンピックについてはどう評価すればよいでしょうか?近代オリンピックは、確かクーベルタン男爵に発案と聞き、その源流は古代ギリシャに発すると言われますが、聖書の中にはオリンピックのようなものはありませんね。しかしパウロは、信仰者の歩みを当時の陸上競技にたとえて述べているところがあります。パウロは、オリンピックのようなものをどう評価し、位置付けていたのでしょうか?(ピリピ人への手紙
3:12−14)古代のオリンピックは、人間中心的な文化、ヘレニズム思想の流れに属する、その発露のような印象を私は受けるのですが、現代のオリンピックもそのような思想系譜に属すると言えるでしょうか?オリンピックは、悪魔の文化に属するもの、罪と考えるべきでしょうか?
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お答え>仰るように、古代オリンピックには、オリンポス多神教、ヘレニズム思想が背景にあったと思うのですが、近代のオリンピックにはそのようなものはないと思います。ただし、もちろん、表立った宗教的な背景がないからと言って、完全に無宗教・無色透明
[=中立的]と呼べるものはこの世界には存在しないわけですから、もろ手を上げて賛成できるものではないことはたしかです。例えば、神を除外した状態で、全世界の人々が平和と団結を手に入れることを目指しているならば、それはバベルの塔と同じですから、必ず失敗します。しかし、スポーツそのものが罪ではなく、神が人間に与えた文化創造の能力の一つであり、それを通して神の栄光を表すことができるものであるのと同じように、最大のスポーツのイベントとしてのオリンピックそのものも、それをまったく悪魔の文化に属するものと切り捨てるべきではなく、それを神のために開催するように改善することが可能なので、全面否定すべきものではないと思います。
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ご質問>奴隷性社会における自由人であった古代ギリシャの哲学者たちは、肉体的な労働を軽蔑していたようですが、そもそも聖書において、労働は尊いことと、人間の使命とされていると思うのですが、いわゆるスポーツというものはどう位置付ければよいものでしょうか?高校野球のようなアマチュア・スポーツと、金銭を得るプロ・スポーツ、それぞれどう評価したら良いものでしょうか?さらにもう一つ加えさせていただきますと、「エホバの証人」は、柔道や剣道などの体育授業は闘争や戦争につながるものとして拒否すると聞きますが、どう考えたらよろしいでしょうか?
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お答え>すでに申しましたように、スポーツは、神が人間に与えた文化創造の能力の一つです。人間は、日々の仕事・労働だけではなく、その労働に活力を再生するために、スポーツや遊びを行うように造られていると思います。人間は、全能者・無限者ではないので、
7日すべてを労働するようには作られていません(神が創造の後に一日休まれたのは人間の模範となるためであって、神に休息が必要なわけではない)。労働6日と休息1日のサイクルを与えられています。休息とは、ただ寝転がっているだけではなく、その日にスポーツやレクリエーションをすることも含まれます。労働だけではなく、適度な運動が健康に必要なことは、医学が証明しています。「高校野球のようなアマチュア・スポーツ」についてですが、学校の本来の目的である学業を脅かすものであれば、問題になるでしょうが、それを通じて健全な人間形成に役立つのであれば、禁止すべきではないと思います。「金銭を得るプロ・スポーツ」については、スポーツの分野において飛びぬけた才能を持つ人々が、自分の技量を見せたり、それを指導したりすることは間違いではないと思いますので、問題はないと思います。プロ選手が半ば偶像化してしまう問題は、スポーツとは別の問題であると思います(どの分野においても偶像になる人々はいますので)。
「柔道や剣道などの体育授業は闘争や戦争につながる」とするエホバの証人の見解について。無実の人に危害を加える目的で武道を学ぶならば問題でしょうが、護身のため、精神肉体の鍛錬のために武道を学ぶことは利益になるわけですから、全面否定できないでしょう。「闘争や戦争」=「悪」という考えは聖書にはありません。闘争や戦争は、この罪の世界においては不可避の現実であり、悪の攻撃に対しては自分の国や身を守る責任があります。もし、あらゆる闘争を否定するならば、日々自分の体に攻撃を加えるばい菌に対する体の抵抗力も罪であるということになってしまいます。神は人間の肉体に抵抗力、抗菌力、自己保存本能を与えておられます。