世界は諸国民の弟子化によって征服される
キリストは、公生涯に入るときに、「神の御国は近づいた」と宣言された。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3・2)
「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」(同4・17)
そして、昇天されるときに、御国が到来したことを宣言された。
「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28・18)
イエスは、昇天された後に、神の右の座についておられる。
「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。 」(ローマ8・34)
つまり、キリストが昇天されて神の右の座(=王座)についてから、世界は法的に神の御国になった。
ステパノは、イエスが神の右に座っておられるのを見た。
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(使徒7・56)
現在、神は、御国の中において絶望的な抵抗をしているサタンの支配を徹底して粉砕するために戦っておられる。
モーセに率いられたイスラエルは、エジプトの支配から逃れて、ヨシュアに率いられてカナンに入った。
それと同じように、律法に率いられた人類は、サタンの支配から逃れて、イエスに率いられて神の国に入った。
今日、「いまだに御国は到来しておらず、この世界はサタンの世である」と主張する神学が流行しているが、聖書は、明らかに御国がすでに到来していることを宣言している。
さて、カナンに入る直前にイスラエルは、律法を再公布された。これはなぜであろうか。
「これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。モーセが、ヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホン、およびアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグをエデレイで打ち破って後のことである。ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。」(申命記1・1−5)
なぜ出エジプト記に与えられた律法をもう一度カナン入植前に与えたのか。それは、律法は、カナンの地に入った後にも守るべき掟であることを印象づけるためであった。
すなわち、神が支配される土地において神の民が守るべき掟は律法以外ではないということを神は宣言された。
このことは、当然、イエスが王として君臨しておられる現在の世界にもあてはまる事実である。すなわち、全世界もそのあらゆる領域において、神の法によって統治されねばならない。
政治・経済・社会・芸術・スポーツ・家庭・教育・・・、あらゆるものは神の法によって運営されねばならない。
私たちの目の前に広がる世界は、キリストの王国である。このキリストの御国において、当然、神の法以外のものが支配することはできない。イスラエルが、カナンの中において残存するすべての敵を駆逐するように命じられていたのと同様に、新しいイスラエル、クリスチャンも、世界の中から神の敵の支配をすべて駆逐しなければならない。
それは、暴力による駆逐ではない。
クリスチャンの戦いは、「血肉による戦いではなく、空中の権威を持つサタンの霊、悪霊どもに対する戦い」だからである。
「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」(第2コリント10・3−4)
クリスチャンは、世界を支配する異なる哲学、思想、宗教、支配をキリストの虜として神の凱旋の行列に加えなければならない。
「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」(同5−6)
伝道と家庭教育によって、すべての国民をキリストの弟子とすることによって、歴史を通じて、世界は神の御国としての真の姿を現してくるだろう。そして、すべての敵がキリストの足台となるまで戦いは継続されるだろう。
「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。『彼は万物をその足の下に従わせた。』からです。」(1コリ15・25-27)
すべての敵がキリストの足台となったときに、キリストは再臨され、世界は完全に回復する。
「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』」(使徒2・35)
「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・20−21)