真のスーパーチャーチとは?

 

 教会成長学では、千人教会はスーパーチャーチである。

 教会成長学において、「神は人が救われることを望んでおられる。だから、教会に人が増えることは神の御心なのだ。」という。

 たしかにそうである。

 聖書は、祝福の一つの形を「人数の増加」においている。

 たしかに、人数が増えることは一つの指標となるかもしれない。しかし、人数が増えたから、すなわち、それが神の目に優れていることには直ちにはつながらない。

 イスラエルが祝福されたときに、イスラエルの人数は増えた。

 しかし、回りの国はもっと多くの人がいた。それでは、異邦人の国々はイスラエルよりも神に祝福されていたのだろうか。

 アッシリア、バビロン、ペルシャ、ローマ、…いずれも大帝国である。彼らは、神の律法を守り、神に忠実に従ったから数が増えて強大な力を蓄えることができたのであろうか。

 イスラエルの周辺国は、「律法を持たない国」であり、「知恵のない国」である。イスラエルにおいては絶対に許されない数々の風習がはびこっていた。偶像崇拝、人身御供、中絶、子殺し、誘拐、魔術、占い・・・。

 数は、祝福を測る「一つの」指標であっても、「すべての」指標ではない。

 だから、数だけを追い求めることは間違いなのだ。

 数だけを追い求めることから来る誘惑は多い。

 総じて、スーパーチャーチと呼ばれる教会は、数を増やすために、教えを犠牲にする傾向が強い。

 アメリカの千人教会に属するクリスチャンと話して、よく驚かされる。この人は20年、30年もの信仰生活でこんなことも知らないのか・・・と思わされることがしばしばである。

 地獄はサタンや悪霊が支配する場所であり、彼らはそこから出てきて、人々を惑わしているのだ、などと平気で語ったりする。

 日本においては、牧師に対する個人崇拝がはびこる傾向が強い。

 牧師は、温かく、親切で、メッセージは、「みなさん。御苦労さまです。お疲れでしょう?」といった類である。

 信徒は、キリストに救いを求めるのではなく、牧師に救いを求めるようになる。牧師につながることを第一に求めることは、偶像礼拝である。

 本当に自立したクリスチャンを作らないと、カリスマで成り立っている教会は、そのカリスマがいなくなった場合に四分五裂である。

 牧師は、人数集めのために信徒を牧師個人につなげることしかしないから、牧師がいなければ何もできない依存心の強い人間ばかりになる。そういった人間は、自分が恵まれ、愛されることだけを考えて、他人を恵み、愛することができない。

 ここに、極めてエゴイスティックなタテ社会が形成される。

 日本人社会の中心にあるタテ社会の構造は、人間崇拝に由来する。日本において、絶対者への信頼と自立という文化的な土壌がないので、日本人はその集団に帰属してその集団からの保護を求めることを第一に求める。

 クリスチャンになるということは、集団依存から脱却し、個を確立することを意味する。

 絶対者に依存するならば、人間の集団に依存しなくても大丈夫だという信仰を醸成しない教会は、キリスト版タテ社会なのだ。

 キリスト教は、文化に取り込まれるのではなく、文化を変えなければならない。「わたしが命じたすべての命令を守るように彼らに教えなさい。」とのキリストの命令は、「異邦社会の常識を覆し、聖書的な思考方法を身につけさせなさい。」ということを意味している。

 もちろん、キリスト教的な思考方法に慣れていない初歩のクリスチャンに対して、突然そのような「自立」を求めよ、と言っているのではない。洗礼を受けたばかりのクリスチャンに突然自立を求めることはできない。

 そうではなく、20年、30年の信仰歴のあるベテランのクリスチャンが、いまだにタテ社会の維持に懸命になり、長老会や牧師会を世俗の人間関係と変わらないものにしようとしているという現状ではダメだといっている。

 本当のキリスト教的人間は、神が自分に与えた使命は何か。そして、周りの社会がどうであれ、真に聖書的な社会を築くにはどのようにすべきかを求め、そのために改革しようとする人である。彼は、「地を従えよ。」との命令を真摯に受け取る、ドミニオン・マン(神的支配拡大志向人間)である。

真のスーパーチャーチとは、このような人間を育てる教会である。

 

 

 



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