超自然はキリスト教の基本である
> 聖書の「瞬間移動」の実例として、伝道者ピ
> リポやイエス様の場合を取り上げていましたが、神は、なぜ「瞬間移動」という奇跡
> をなさるのでしょうか?
旧約聖書においても、新約聖書においても、空中携挙(エノクやエリヤ)や、瞬間移動など、超自然的な物理的な移動を神が行われるのは、恐らく、この世界の物理法則を超越される御方であることを示すためであると思います。
聖書は、一貫して、神は創造者であり、被造物の法則に縛られる方ではないということを主張しています。
創造は、瞬時にして起こったことであり(6日かかったのは人間の労働の模範となるため)、進化などによって、徐々に行われたのではないのは、神が被造世界の一部ではなく超越者であることを示すためです。
カトリックやギリシャ思想は、神を存在秩序の中において最も優れた者と考えますが、これはある意味において汎神論なのです。神と被造物とは完全に断絶していると考えなければ、キリスト教は異教思想になります。
キリスト教が奇跡を主張(昔あっただけではなく、今日でもあると)しなければならないのは、この神の超越性をはっきりと示し、その前提の上で思考しなければならないからです。
だから、奇跡の問題は単なるこけ嚇かしとか、興味本意の問題ではなく、キリスト教が立つか倒れるかの根本的な問題なのです。
リベラリズムや自然主義のキリスト教(本当はキリスト教ではない)は、神と被造物との間に断絶を認めないという基本的な考え方があるため、奇跡を否定し、処女降誕を否定し、さらに、復活や、今日における神癒なども否定するのです。彼らは、近代哲学の、「宇宙孤立説(宇宙は閉じられた系である)」をキリスト教に適用したもので、明らかにシンクレティズムです。
キリスト教は、本質において超自然的な宗教であり、キリスト教から超自然性を除けば、骨組みのない家のようなもので、すぐに倒れてしまいます。
このような世俗思想の影響は、カルヴァン主義にも入り、そのため、今日、改革主義は、あまり聖霊や、神癒について言いません。そのために、理性主義になり、生きた信仰を失ってしまったのです。今日の彼らの集団は、ある意味において、「なんでも鑑定団」化してしまったのです。古い信仰告白や、19世紀の注解書などを愛で、あれはいい、これはいい、と言うだけで、現実性(relevancy)を失っています。