各民族の数人が救われれば大宣教命令は達成される?

 

 新改訳で「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28・19)の「国の人々」の原語は、τα 'εθνηである。τα 'εθνηを新約聖書ギリシャ語小辞典で調べると、「ユダヤ教外の諸国民、異邦人、異教民族、異教人」とある。聖書において、τα 'εθνηは、異邦人、異邦の民族を指す定語である。

 さて、新改訳は、その編者の立場から、前千年王国説に傾いているので、この個所は、「あらゆる国の人々、つまり、全民族の中の幾人かが弟子となれば大宣教命令は成就する」という前千年王国説の立場を反映しているように思われる。

 しかし、はたしてこの見解は正しいだろうか。

 一体、全民族の幾人かが救われることにどのような意味があるのだろうか。

 天の御国に集まった人々の中に、少しずつでも全民族からの代表者の顔が揃うようになることが神の御心なのだろうか。

 「今回の大会では、世界のすべての国から参加者が来ています。」と誇らしげに語るオリンピック関係者とどこが違うのだろうか。

 旧約時代から一貫した聖書の主張は、「全世界の諸民族が弟子化される」ということである。つまり、個人主義的な救いではなく、「民族として」全世界の人々はキリストに従うようになる。日本人の幾人かが救われてそれで終わりというのではない。日本が、「民族として」キリストの弟子となり、その文化、政治、経済あらゆる点においてキリストの命令を守るようになると聖書は預言している。

 「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れてくる。多くの異邦の民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえ(原語では『律法』)が出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(ミカ4・1−3)

 「国の中の数人が救われればよいのだ」という個人的救済によって、国際平和が達成できるだろうか。

 国単位・民族単位で、律法を守り、平和を愛するようにならねば、国家間の戦争はなくならない。

再臨前の時代において、イエスの救いを個人的なものに限定し、民族として、国家としての救いを否定する前千年王国説は聖書全体の主張から著しく乖離している。

 

 



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