人目にうるわしい信仰
異端の教えの特徴は、「味わうのに良く、目に慕わしく、賢くする」ように見えることである。
もし醜悪で、馬鹿になりそうな教えなら、人々は惹きつけられない。
だから、異端の教えは、いつも、その時代の人々にちょうど向いているように組みたてられている。
今日流行している新興宗教の教えを見てみればこのことははっきりする。
実に、現代人が飛び付きそうな教えである。
「あなたの心の中には仏性があるのです。それを開花させるだけでよいのです。」
「神様を信じる人ではなく、神様に信頼される人になりなさい。」
「人間の魂は生まれ変わる。あなたの行動の責任は生まれ変わった人々が支払う。」
どれもこれも、自己責任など教えない。人々の自尊心をくすぐり、自分の罪の責任を回避させる教えである。
プレ・ミレは、現代人に合った教えを提供する。
「人間が何をやっても無駄だ。サタンの力は強大で、打ち勝つことはできない。キリストがやって来てすべて解決していただく以外にはない。」
これを聞くとクリスチャンは、責任から解放された気分になる。
「そうか。キリストが全部やってくれるのか。それじゃあ、自分はただ待っていようではないか。」
教育の荒廃、経済の低迷、人心風紀の乱れ、その他の様々な問題について、クリスチャンは取り組む必要などない、ただ聖会を開いて、賛美するだけでよいのだといわれれば、こんなに楽なことはないではないか。
しかし、神の根本的な命令「地を従えよ。すべての国民をキリストの弟子とせよ。」は無視される。
プレ・ミレは、このような神の全体命令と真っ向から矛盾対立する。
プレ・ミレは、サタンの提供した誘惑である。
事実、プレ・ミレは、歴史の中において、ごく少数のセクトや異端の中においてしか受け入れられなかった。
ウィリアム・H・ラットガーズ博士は次のように述べている。
「前千年王国説は、教会から禁止され拒絶され、数世紀後になってやっと分離主義者やセクト主義者の運動の中で現われたにすぎなかった。そのような運動の中で、前千年王国説は、今日まで、周期的に現われ開花した。その粗野で非聖書的な形態のゆえに、教会の支配的な信仰から支持を受けたことは一度もなかった。」(William H. Rutgers,Premillennialism in America, p.71(1930))
もしこのような運動が支配的であったならば、市民革命や産業革命などはけっしてヨーロッパにおいて起こらなかったであろう。
キリスト教は、世界を変えるために働きかけ、そして、それは成功してきた。
我々が変えるのでなくて、誰が変えることができるだろうか。