テロリストに対する攻撃はすべて復讐か?

 

 テレビの解説者が、ブッシュの武力報復を非難してこう言った。

 「キリスト教やイスラム教、ユダヤ教は、すべて『目には目、歯には歯を』というような報復の宗教だからダメなんだ。日本のような許しの文化が間に入っていく必要があるのではないか。」と。

 これは、大きな誤解である。聖書は、「目には目を」という教えのすぐ前に、「復讐してはならない。」と述べている。

レビ24:20では、「目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。」と言われているが、レビ1918では、「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」と言われているからである。

ということは、この「目には目、歯には歯」というのは、復讐を教えていないということは明らかである。

では、これは一体何を教えているのだろうか。

これは、「刑罰の大きさはその罪の大きさに比例しなければならない」ということを教えている。「目を害した者への刑罰は『死』である」とはならない。この戒めは、「目を害した者への刑罰は目を越えるものであってはならない」というように、刑罰に制限を設けている。

さて、今回のブッシュ大統領の報復措置に対して、「聖書は復讐を禁じているから報復措置には賛成できない」と言う人々がいる。たしかに、「復讐」は聖書が禁じているものだ。しかし、「罪はそれに応じた報いが必要である」という原則も存在する。罪を裁くことがなければ、罪は大手を振って歩き回ることになり、国際秩序が崩壊する。「いや、そういったことは神が裁くのだから…」と言う人が多いが、これは完全に間違っている。

なぜならば、「神の裁き」は、「人間の裁き」の及ばない部分にのみ働くからである。つまり、人間が最善を尽くして、裁こうと努力しなければ、神は裁かれることはないということだ。

例えば、どのような社会においても、目の前において悪事が行われ、秩序が破壊されているのにそれを裁く人がいなければ、その社会は間違いなく崩壊する。会社において、平気で横領している人を見て、会社が何もせず、「神の裁きに委ねましょう」と言っていたら、会社は倒産するだろう。

「裁くな」ということは、「どのような場合でも絶対裁いてはならない」ということと同義ではないのだ。イエスは、「(裁くならば)正しい裁きをしなさい。」(ヨハネ724)と言われ、「裁くことそのもの」を非難はしていないのだ。

そもそも、神が、人間を創造されたのは、「人間に裁かせるため」なのだ。地を従えよ、との命令は、「地において審判者として働け」ということなのだ。

人間は、正しく裁くために、知恵を与えられている。その知恵を用いて、神の部下として、正しく自分に委ねられた領域を裁き、管理しなければならない。

しかし、このような務めを最大限の努力を払って果たそうとする時に、どうしても、力が及ばない部分が出てくるだろう。こういった場合には、「裁きは主に委ねる」。

つまり、「人事を尽くして天命を待つ」という原則である。

今回のケースでは、ブッシュは、国際社会の認める形で犯罪者を処罰すべきだろう。国内の復讐を求める人々の心を満たすために、相手を攻撃するならば、血が血を呼ぶだろう。神の祝福を受けることはできないだろう。

しかし、逆に、「復讐はいけないから、何もすべきではない」というならば、それは、悪を放置することになり、神の御心でもない。ブッシュは、国際社会の秩序を維持するために、正義の原則を守るために、テロリストを捕えて、法の裁きに服させるべきだろう。しかし、万策を尽くしても捕らえられないこともあるかもしれない。その場合には、神に委ねる。そうすれば、神は丁度よい時に、不思議な方法で、テロリストを捕らえるか滅ぼすか、何かをしてくださり、正義を実現してくださるだろう。

(この過程において、抵抗する人々が死ぬこともあり得るだろう。こういった殺人は、聖書における「殺人」ではないのだ。)

 

 

01/09/18

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